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緑
2009年8月。
中央病院では年末年始以外、休診はカレンダー通りで、お盆休みはない。賀川は毎年同じことを思う、「なんでや」と。
それに加えて、夏の嵐の時期だ。
この地域はときに荒れ狂う。夕立は多いし、おまけに水はけが悪いので、傘を差して駐車場を走り抜けるだけでも全身びしょ濡れになったりする。
「絶対くるよねコレ」
その日もそんな空模様で、賀川は午後から、窓の外をちらちら気にした。滝井という後輩の係員が「ヤバいですね」と答えた。
この天気で何が怖いって、雷である。
医事課では医事会計システムというものを用いて、患者の診療費を算定し、お金を領収する。
しかし不意の落雷によって、あるいは実際に落ちなくても大気が不安定なだけで、病院が瞬停することがあるのだ。医療機器ではないので非常用電源にはつながれていないし、無停電電源装置もなし。
そうすると、一瞬でシステムダウンする。患者には手書き領収書でお金をもらうか、預り金で対応するしかないので、説明が大変だ。
医事課にとって、雷は大敵なのである。
「よくも悪くもウチは電子カルテが入ってないから、被害が小さくて済むよ」
医事課長の浅利が言うと、竹脇が「確かにそうすね」と同調した。
「今だって大変なのに?」
「いつかはウチだって、電カルを導入する日が来るだろ。システム障害対策とか情報セキュリティは、事務方がしっかり仕切らないと中途半端になるからな。誰がそれを担うかが重要だ」
「うわ、大変そう。絶対やりたくない」
賀川は本心から言った。
今から約五年後、賀川は電カル導入の事務方の仕切り役を担うことになるが、もちろんそれはまだ知らない。
夕方、ふらりと人事課を訪ねて、カミナリが怖いという話を塚村にした。はす向かいの席には朝田あかねがいて、興味津々といった様子で話に聞き入った。
「大変なんですねー、患者さんの対応って」
「お年寄りが多いから、理解してもらうのも大変」
「でも賀川さん、そういうの得意そうですね」
「全然。面倒な相手だったら、すぐ竹脇係長に振っちゃうよ」
医事課は患者と接する部署、人事課は職員と接する部署。どちらのほうがストレスが多いかというのは、よく話のテーマになる。これは意外とイーブンだ。職員にも面倒な人間は多い。
「でも今日は、このまま落ち着いてくれるかな?」
塚村が窓の外を見て言った。どんよりとしているが、降りそうで降らない。ピカピカ、ゴロゴロも今のところなさそうだ。
そんな空をみんなで見ていると、数年前、あれはまだ県立療養所時代だったか、雨上がりに綺麗な虹を見たことを思い出した。
「虹を見たのって、まだ屋上に普通に出られたときだったよね。今は施錠されちゃってるけど」
そんな話をすると、塚村が少し顔をひきつらせた。
「そんな頃だったっけ。見たなぁ、そういえば」
「超でっかいヤツ。あそこにいたの、私たち二人だったかな」
「どうかな……」
塚村は歯切れが悪い。朝田が退屈そうにしているのを見て、話題として何か良くなかったかなと思ったが、彼女に気を遣っただけかもしれない。
「お二人はずっと仲良しなんですね」
「ま、まあ、付き合いが長いだけだよ」
塚村が答えた。何でそこでドギマギする。付き合っていることは職場に内緒だとは言っても、ひた隠しにされるのもあまり気分の良いことではない。
結局、その日は空が頑張ってくれて、雷雨とはならなかった。
勤務時間が終わり、塚村の車の中でまた会った。
車内がまったく安全圏でないことは、ついこないだ総務課長に目撃され、ようやく気付いた。抱き合ったりしているときではなかったからまだ良かったが、思いきり目が合ったのだ。
だから車自体を、離れた駐車場の木陰に停めることにしている。余計に目立つだろうか。
「何なのさっきのアレ、朝田ちゃんに気を遣って」
本当はさほど気にしていなかったが、一応礼儀として突っかかってみた。
「いや、朝田さんがどうこうじゃなくて、虹を見たこと、いきなり言うからびっくりしたんだよ」
助手席の賀川を見て、塚村が少し笑った。
「あのとき賀川、わあ虹だーって喜んでて、可愛いなって思った」
「その頃から私を好きだったんだね」
「どうかなあ。賀川は覚えてるか分からないけど、虹を見て、あんな色の花束もらいたいなって言ったんだよ」
「お、覚えてない!」
虹の花束――。私がそんな夢見がちなこと言うかな。塚村の幻想ではないだろうか。賀川は訝る。
「ネモフィラを見て青カビみたいって言った人と、同一人物とは思えん」
「そっちが正真正銘の私だよ」
そこで二人は大笑いした。
「それで、じゃあ俺があげるよって約束したんだけど、それも覚えてない?」
「おお……。それも、覚えてない。それは覚えてなきゃダメなことだね」
「虹の色というものは、光の波長によってグラデーションに見えます。波長が短い順に、紫、藍色、青、緑、黄色、オレンジ、赤」
急に理科の授業が始まった。
「虹の花束となると、こういう色をそろえなきゃいけないんだけど、簡単じゃないよ。特に緑が」
「確かに。緑って、その時点でもう草だもんね」
賀川は笑いながら言った。緑色の花なんてあるのだろうか。
それにしても、夢見がちなのはこの男のほうだ。そんなどうでもいい約束を、よくもまあ覚えていたものだ。
「朝田さんの前で、そういう話になると恥ずかしいなって思ってさ」
「そこよ。何で彼女に見栄を張るかな」
「いや、見栄っていうか。二人だけのものにしておきたいじゃん」
「うまく逃げたね」
まったく、私で味を占めたんだな――。男は可愛い後輩の前で頼れる先輩ヅラをしてるときが、一番気持ちいいのだろう。
賀川にも同じ医事係の後輩がいるので、分からなくもなかった。
「ところでコレ何、さっきから気になってたんだけど」
ダッシュボードに妙な植物が置いてある。マリモのような、丸っこい緑の草だ。前からあっただろうか。多分ない。
「これ、ガーベラ・ポコロコ」
「あは、面白い名前だね」
「花なんだよ。緑の花」
「えっ、花?」
どんなに鈍感でも、さすがに気付く。さっきの「虹の花束」の約束に出てきた、緑色の花だ。見せたくてここに置いたのだろうか。
賀川が「わざわざ探したの?」と聞くと、塚村は「そう」と答えた。
「だからさっき虹の話をしたとき、びっくりしたんだね」
塚村はまた「そう」とだけ答えた。
「でもけっこう濃い緑だよ、こんな色、虹の中にはないよ」
「そこはまあ、目をつぶって」
塚村が笑ったので、賀川も笑った。
「失礼しました、せっかく一番最初に難関をクリアしたのにね。揚げ足をとってしまった」
そういうと、塚村は驚いたような表情で賀川を見て、また「そう」と言った。これで三度目だ。どうも彼の心がよく分からない。
分からないが、賀川はやはり嬉しかった。
大切にしてもらっている気がしたのだ。私たちの恋は常に前進していて、希望に満ちている。
幸せだな、と思った。
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