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黄
2010年2月。
その年のバレンタインは日曜日だったので、お昼から一日デートしたあと塚村が住むマンションに行って、準備していたチーズケーキを食べた。
塚村はチョコレートよりもチーズケーキが好きで、しかもレアよりベイクド派、ということは事前に聞いていたので、間違いがない。
こういうのも、何だか久しぶりだなと思った。
賀川は自分がもらう側だった場合、サプライズより、ちゃんと欲しいものや好きなものを伝えて、それを買ってもらうほうが嬉しいタイプだ。二ヶ月前の11月3日は賀川の誕生日だったが、そのときも同じように伝えて、ネックレスを買ってもらった。
塚村の誕生日は付き合うまで知らなかったが、三月だったということを知って、じゃああの『アイリス』での食事は誕生日のすぐ後だったんだな、と気付いた。
付き合い始めて、なんだかんだでもうすぐ一年になる。
デートもあちこち出かけて、思い出がどんどん増えていった。ケンカは何度かしたけど、二人ともあまり引きずるタイプではないので、致命的なことはなかった。
今年の2月は寒い。雪も降ったし、風もいつも以上に冷たい気がした。よく冬は人の温かさを一番知る季節というが、その通りだなと思う。並んで歩くときは、塚村にくっついてばかりいた。
「塚村さんの方が、先に私を好きになったはずなのに」
この不満はけっこう深刻で、納得がいかないという気持ちだった。今はどちらかというと自分の気持ちのほうが追い越してしまった。
「そう思ってるのは賀川だけだよ」
そんなこと言うのだけど、信じられない。
ちなみにお互いの呼び方は付き合う前と変わらず苗字で、たまに「これでいいのか」って思うこともあるけれど、まあ無理して変えることもないかと考えた。
加えて、良いことがあった。
ここ中央病院はもともと県立療養所であったところ、2007年に橘橙会という医療法人に移譲され、そこの一施設になったわけだが、事務職員の昇任についてもルールが変わった。
係員から係長になる場合、日々の業績を上席者に評価された上で、そろそろかなと思われたときに声がかかる。
それで、「上を目指してみる気はあるかい?」といったような打診があって、軽い面談があって、橘橙会の本部が承認すれば、ステップアップするという流れらしい。
賀川は竹脇係長から聞いただけなので、よく分からない。昇任の明確な基準もあるらしいが、それは上の人しか知らないようだった。
そして、賀川にその声がかかったのが二月の初めのこと。
医事課長の浅利が賀川のデスクに来て、「少し時間ある?」と聞いてきた。ほくそ笑むような、それこそサプライズを用意している人の表情を浮かべていたので、賀川が「不気味ですね」と言うと、浅利は笑った。
「じゃあ、ちょっと事務長室に行こうか。かしこまらなくていい」
かしこまる予定などない。見ていた竹脇が「良かったな」と言ったので、とりあえず叱責でないことは分かった。
それから二階の事務長室に行って、向かい合って座った。浅利は隣だ。係員の立場だと、あまり事務長と対面することはない。
「賀川さん、来月で丸四年か。上を目指してみる気はあるかい?」
聞いていた通りのセリフでびっくりした。台本があるのだろうか。事務長が言うには、四年でこの打診は早いほうだと言う。
「ひとつひとつの仕事が丁寧なのに、無駄がなく効率的という評価をよく聞くよ。仕事は長い時間をかければいいってもんじゃない。それからこれは重要なことだけど、医師や看護師からの賛辞も聞いてる。我々事務の仕事は、現場のために役立ってナンボだからな」
意外な言葉をもらい、賀川は戸惑った。特に仕事を頑張った自覚はなかったが、しかし、やっぱり評価されると嬉しい。
「じゃあ、目指してみます」
あまり深く考えず、そう回答した。以前から同僚とそういう話になったときも、上に行きたいというよりは、いつか自然に行くんだろうなという感覚だった。ただ係長連中はみんなけっこう忙しそうなので、その点だけは憂鬱であった。
「自分のことではあるけど、まだ誰にも言わないようにな」
浅利にクギを刺された。
それなのに賀川は事務長室を出ると、真っ先に人事課に行って、塚村にも伝えた。嬉しいことは、やっぱりすぐに伝えたくなってしまう。
さすがに他の人間に聞かれるのは憚られたので、給湯室まで引っ張って行って、誰もいないことを確認すると、「あのね!」と言った。
「ほんと!? すごいじゃん、賀川の仕事はやっぱり評価されてるんだなぁ」
塚村は喜んでくれて、それも嬉しかった。
それからしばらく浮足立った日々が続き、バレンタインのチーズケーキデートでも、その話ばかりした。
「どの部署の係長になるかな」
「部下もいるのかな」
「給料って上がるのかな」
そのたびに塚村はニコニコした顔で「どうだろうなあ」と言ってくれる。彼も嬉しそうだったし、共有できる人がいるってすごいことだと、遅ればせながら実感した。
二月の下旬に、再び事務長室に呼ばれて、内示を受けた。
賀川由佳、2010年4月1日付で経理係長に昇任。
「わぁ、ありがとうございます」
「子どもみたいに喜ぶから、こっちも伝えがいがあるよ」
事務長がそう言うので、賀川も「へへ」と笑った。
一応礼儀だと教えられたので、まずは医事課に戻り、浅利課長、竹脇係長、後輩の滝井らに報告をした。
それからもっかい二階に上がり、塚村に伝える。彼は「おめでとう」と言ってくれて、帰りに彼の車の中でぎゅっと抱き合ったあと、三回くらいキスをした。
「そうだ、これ」
そういうと彼は、後部座席からウッドバスケットに入った黄色い花を手に取って、賀川に渡した。
「おお、すごい。用意してくれてたんだ」
「フリージアだよ」
「ありがとう、嬉しい」
やはり、花を贈られると嬉しい。
恋人ができて、係長に昇任して、それを祝福してもらう。この一年は、ちょっとできすぎてるなと思うほどだ。
自分で言うのもヘンな話だが、賀川は自覚できるほどに、無邪気に笑った。
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