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2010年4月。
二階の事務室は大きく二つに分かれていて、一方に総務課と財務経理課、もう一方には人事課がある。賀川は経理係長として財務経理課に籍を置くことになり、塚村との距離も近くなった。
3月は、とにかく忙しく駆け抜けた。
寄りによって診療報酬の改定もある年なので、通常業務も殺人的に忙しかったのに、前任の経理係長から業務の引継ぎを受けつつ、後輩の滝井には自分の業務を下ろす。
賀川が去った後の係員の補充はこの春に卒業する納見という男子で、一度だけ職場見学に来たが、4月に入ってもしばらくは戦力外のカウントになるだろう。
とにかく、医事課が大変だ。
竹脇係長の苦労は想像に難くないが、自分だってそんなことを気にする余裕はない。経理係長は幸か不幸か部下がいないので、とにかく独り立ちすることが最優先課題であった。
「何かあれば、できる範囲でフォローするから」
塚村はそう言ってくれた。だが課が違う上に彼だって忙しいのだから、あまり期待はできない。
「ずっと忙しくて、ゴメンね」
「いいよ、仕方ない」
自分でも最悪だと思ったのは、塚村の誕生日を、ファミレスでの食事で済ませてしまったことだ。ホワイトデーやお付き合い一周年の記念日も、すべてがおざなりになった。かろうじてプレゼントだけは買ったけど、一緒に買いにいくことだってできず、取り合えずって感じで腕時計を渡した。
言い訳になるが、忙しかったのだ。
経理係長の仕事は、決算業務や支払業務がメインだった。
前任の引継書を見ながら、ひとつひとつ処理していく。決算業務はミスがあっても、ある程度は後から修正できるが、支払いを誤ると大変だ。前任が橘橙会本部に転勤してしまったので、分からないときに聞く相手もいない。
多くの金の流れを追う中で、院内併設保育園に対する市からの補助金について、確認したいことがあった。
「ええと、この担当は……」
引継書を見ると、厚生係という名前がある。塚村に聞けるなら安心だと思った。
人事課の方に出向いて、塚村に声をかけた。
「保育園の補助金? 集計の担当は俺だよ」
「良かった、ねえここ教えてほしいんだけど」
そう言って、持ってきたドッジファイルを彼のデスクに置いてバサっと開いた。だが塚村は「ちょっと、後でいい?」と言って、眉間に皺を寄せた。
「ああ、後ね、わかった。どのくらい後?」
「ちょっと今忙しくて、こっちから声かけるよ」
それから数時間が経過しても、彼から声がかかることはなかった。
四月はどこの部署だって忙しい。それは当たり前だ。分かってるけど「フォローする」なんて言ってたのだから、こちらの身にもなってほしい。
少しだけ苛立ってもう一度塚村のところに行くと、「だからすぐ行くって」と冷たく言われた。
「すぐ来てないじゃんっ」
「係長になって忙しいのは分かるけど、自分勝手なこと言うなよっ」
双方で、少し声が大きくなった。ヤバい。この雰囲気は絶対にまわりに伝わっていると思う。塚村もそれを察したのか、厚生係長の岩永にペコリと頭を下げて、自分の仕事に戻った。ほとんど無視されたような感じになっている。
朝田もそこにいて、ちらっと賀川を一瞥した。空気を察したのか何も言わないが、彼女もやっぱり冷たい視線だったように感じる。
賀川は「何なんだよ」と呟いて、自分の席に戻った。今まで仕事のことで衝突したことはなかったので、イヤな気分だった。
補助金の件は、その日の夕方には解決した。二人のやり取りを見かねた岩永係長が、教えにきてくれたからだ。
そのときに「認識がないかもしれないけど、二人のことはみんな知ってるからね」と言われた。
賀川が「みんなって?」と聞き返すと、「みんなだよ」と言うので、それ以上は聞けなかった。
それから数日、塚村とは言葉を交わさなかった。彼から声をかけてくることもなかったし、賀川もかけなかった。目が合っても、自然と逸らす感じになってしまった。
しばらくして、非常勤職員の社会保険料の納付の件で、朝田が財務経理課にやってきた。年金事務所から送付された納付書を使って、銀行で支払う。これは月末の賀川の業務であった。
「……でね、こことここの数字が合うんです」
「ああ、なるほど。さすがだね朝田ちゃん、もう全部わかってる」
「そりゃあね、もう長いですもん」
こうやって会話していると、可愛い妹のようだった。だが一通り業務についての話が終わると、彼女は声のトーンを落として「塚村さんのこと」と切り出された。まるでそれが最初からの目的だったように感じる。
「何、塚村さんどうしたの」
賀川は平静を装う。装う必要があった。
「私たち、この一年がんばって、けっこう成果をあげたんです。賀川さんは知らないかもしれないけど、例えば育休を取得すると給与がどうなって、給付金がいくらで、そういうこと知らないと選択もできないでしょう? 男の人だって取得してほしいから、各職場長にパンフレット配ったり、そしたら放射線技師で一人、申請があったんですよ」
「それ、個人情報じゃん。言っちゃっていいの」
朝田はむっとしたような表情で、一瞬黙った。
「塚村さんが、すごく努力したって言いたいの! それに私だって」
彼女が突然まわりに聞こえるような声を出したので、少し怯んだ。やめてくれ、こないだそういうイヤな空気を味わったところなんだ。
「朝田ちゃん、塚村さんが好きなの?」
「バカじゃん! ほんっとに、賀川さんって――」
呆れて物も言えない、ってこういう表情なのだろう。そこで朝田は立ち去った。後輩に正面きって「バカ」と言われる社会人など、そうはいない。賀川は怒りを通り越して、何だかもう全部イヤになった。
それでも、月末までに社会保険料を納めなければならない。
仕事ってそういうものだ。だから疲れる。
その日の夕方、メールが一通届いた。差出人は塚村だ。すぐそこにいる。話しづらくて業務連絡を寄越したのかなと思ったが、タイトルが『今回は写真だけ』だったので違うと気づいた。
画像が添付されていた。
オレンジ色の花だった。メール本文には「ハナビシソウ」とだけ書いてあった。見た瞬間にイライラがピークに来て、すぐに席を立つと、塚村のデスクに一直線に向かった。
「ちょっと来て」
塚村も予想していたのか、すぐに席を立ち、事務室を出た。
連れ立って歩く。何日ぶりか分からないが、状況が状況だけに全然ウキウキしない。二人は何となく、別棟につながる渡り廊下のあたりまで来た。ここはあまり人が来ない。
「ほしいなんて言ってもないもの、送りつけてこないでよ! 花の写真とか、気持ち悪い」
いきなり言い過ぎた。だが本心だった。
「それでムカついたのか、わざわざこんなところまで。係長さまは忙しいんだろ?」
顔に思い切り皮肉な表情を浮かべる。いつもの優しい塚村とは思えなかった。
「私にケンカ売りたいの?」
「まさか。なんでそんなふうに思うんだ」
「誕生日のこととか、怒ってるならはっきり言えばいいじゃん」
「自覚あったのかよ。だいぶ粗雑に扱われたなあとは思ったけど、俺は我慢するのは得意だからな」
やっぱりそこだったのか。要するにイジけてるわけだ。
賀川は、これは謝ったほうがいいなと判断し、「悪かったよ、ゴメン」と言ったのだが、彼の表情が柔らかくなることはなかった。
「なんでお前が、係長になるんだろうな」
「えっ」
思わず声を上げたが、すぐにはその意味が頭に入ってこなかった。塚村自身も言って後悔したのか、苦痛に顔を歪めたように見える。
昇任が決まったとき、あんなに喜んで、褒めてくれたのに――どうして。
「いや、今のは無し。悪かった。ホント、みっともないよな俺」
そう自嘲気味に笑った後は、それまで強張っていた彼の顔が、だんだんと、ほどけていったように見えた。あるいはそれを見つめるこちらの目が、変わったのだろうか。
「塚村さんがそんなふうに思ってたなんて、全然、私――」
無自覚に、自分が彼にどんな言葉をぶつけてきたか。ひとつひとつ思い出す時間が欲しい。今はただ、私を拒絶しないで、と思う。
「わからなかったの、ゴメン」
「気付かないと思うよ、見せないようにしてたから」
「話してほしかったよ。私が無神経だったのかな」
「無神経ではあるね、間違いなく」
そこでまたカチンときた。
せっかく怒りが罪悪感に変質しかけたのに、それが急に引き返して、やっぱりムカついてきた。
「塚村さん、我慢が得意っていうけど、結局こうやって感情が漏れちゃってるじゃん。それ、得意って言わないから」
「弁護士になれるな、お前」
「お前って言うなよ!」
あーあ、大声出しちゃった。やっぱもうダメだ、今日は何言ってもダメ。
「私が先に係長になったからって、嫉妬するのはやめて」
「嫉妬……か、ひどい言い方だな。じゃあ賀川は、毎日、努力してたのか? いつも定刻で帰ってさ」
「長い時間をかけて働けばいいってわけじゃないでしょ」
そう言うと、塚村は顔を歪めてチッと舌打ちをした。イヤな感じだ。
「ホント、小さい男だよね。塚村さんがそんな人だなんて思わなかった」
「それは俺をちゃんと見てなかった証拠だな」
「じゃあね」
これ以上は話しても非生産的だと思い、賀川は先にそこを去った。
――ショックだった。
塚村がそんなふうに思っていたこと。死ぬほど後味の悪いケンカをしたこと。そして、自分自身が発した言葉のすべて。全部ショックだったけど、一番は、一番辛かったのは、塚村の「顔」だった。
あんなに悪意に満ちた、意地悪な顔を見せた男を、これからも同じように愛せるのか。
きっと、無理だと思った。
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