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赤
2010年5月。
塚村と4月からあんな調子だったので、連休をどう過ごすかなんて話せるわけもなかった。会話らしい会話も、もうしばらくしていない。
仕事のほうは、経理係長になって一ヶ月経過したので、なんとなく月間のスケジュール感もつかめて、心に余裕ができてきた。余裕ができると、余計なことを考える。相手を責めたり、自分を責めたり、ただ昔を懐かしがったり。
仕方なく、連休は家で過ごすことにした。
その様子を見て、母が楽しそうに「フラれたの?」と聞いてきた。まだ中学生の弟も、興味深く見てくる。
「うるさいな、まだフラれてないよ」
「まだ、ねえ」
結局ここでは落ち着かないので、外に出ることにした。5月2日は日曜日で、よく晴れていて気温も湿度も心地良い陽気だった。
去年の今頃は温泉旅行なんて行って、ホントに幸せの絶頂にいたのに――。
車で町を走っても、好きな音楽をかけても、心が晴れることはない。さすがにあの温泉街に向かうようなことはしなかったけど、この孤独なドライブは追想そのもので、どう考えたってガラじゃないのだ。
そして、今さらだが、あのオレンジの花、ハナビシソウの写真。
どうして塚村があのタイミングで送って来たのか。彼はやっぱり、あの「虹の花束」の約束にこだわっているのだろうと思う。
律儀というか、健気というか。
それが彼なりの想い方だったのかなと思うと、さすがに「気持ち悪い」と言ったのは悪かったかなと思えた。
賀川の思い出せる限り、塚村からもらった花は写真やカードも含めて六つだ。
青系はどれが何だかよくわからないが、もしそれで虹を作ろうとしているなら、まだもらっていない色がひとつあった。
コンビニの駐車場に車を停め、塚村のケータイに電話をかけた。
八回目のコールで「もしもし」という声がした。
「塚村さん、今、職場?」
「そうだよ、連休中の出勤は、人事課恒例だから」
こうやって声を聴くのも、もうかなり久しぶりな気がする。
「どうしたの?」
「……私たち、もう終わりにしたほうがいいと思う?」
ズルい言い方をした。相手に委ねている。でも今は、このズルさが精いっぱい。電話をかけようとしただけで、涙が出てきたんだ。
「俺は、去年の三月から、賀川のいない人生なんて考えたこともない。だから、別れたくないよ。ずっと一緒にいたいって思ってる」
ここまでは、むしろ迷いのないまっすぐな言葉だった。でも今の賀川は、これをそのまま喜べるほどシンプルじゃなかった。
「でも……賀川が終わりって思うなら。そうだな。……そうかもしれない」
結局、最後は断言しない、彼もズルかった。それも許せる。
もう、あの怖くてイヤな顔をした恋人ではなかった。
本当に、別れることになるのだろうか。
大好きで、大好きで、あんなにしがみついて、抱きついて、もう離れることなんて考えられないくらいだったのに、こんなにもあっさり、なんて。
「終わりかあ、寂しいな」
ただのケンカ。
どこの恋人同士だってやってるし、乗り越えてる。イヤなところを見せ合うのだって、分かりあっていくプロセスのひとつにすぎない。いいところだけ見続けるなんてできないのだし、過剰に反応しすぎなのだ。
――だけど。
賀川は、自分には無理だと思った。少なくともこの相手とは、それを続けるのは無理だ。辛すぎる。
あんなにイヤなところをお互いに見せ合ったのに、終わるときほど良いことしか思い出さないなんて、バカとしか言いようがない。
「私、赤い花をもらってないよ」
そう言うと、電話の向こうで小さな吐息が漏れた。
「よく分かったなぁ、賀川、全然気づいてないと思ってた」
優しい言い方だった。頭を撫でてもらったような錯覚に陥る。
「赤いアネモネを買ったんだ。やっぱり、渡したいと思って。でも渡せなかった、今は俺の部屋に飾ってあるよ」
「部屋に花を飾る男って、好きじゃない」
「そんなこと言うなよな」
そこで同時に、二人は笑った。
七つ目の色に至り、ついに彼は約束を守れなかったのである。
賀川は離れたくないと思った。離れたくないし、別れたくないけど、もうあんなイヤな思いもしたくない。でも考えてみれば、同じ職場なんだ。離れるったって、それも簡単じゃない。
「また前みたいに、仲良しの先輩と後輩に戻れる?」
「そうだな……戻ろう。戻りたい、俺も」
そこで一拍置いてから、塚村は「賀川に負けないように俺も頑張るよ」と続けた。
別れ話の際で、まるで矛盾するようだけど、賀川は胸のうちで、あなたを愛しますと答えた。
1年と1ヶ月。賀川と塚村は、そうやって別れた。
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