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若隠居、逃走する(4)
あまり「世界」に名前がついていることは無いと思う。
例えば日本という国はあるが、それは国名のひとつだ。地球というのも、惑星の名前であって、世界を指す名前ではない。
しかしこの世界には名前があった。アルゲルラルドだ。
とは言え、元々は地球と同じく、世界に名前はなかったそうだ。
だが大昔に地の底から現われた悪魔の化身が地上世界を蹂躙してまわり、人もほぼ全滅してしまったらしい。
その悪魔の化身は透明のぶよぶよとした姿をしていて、全てのものを呑み込んでしまうと言うから、間違いなく呑王たちのことだろう。
その中で奇跡的に残った町がアルゲルラルドという名前で、その時から、アルゲルラルドというのはこの世界を示す名前になったそうだ。
悪魔の化身は地の底に帰り、それが出てきた穴は封印して教会を建てたそうで、それからゆっくりと残った人々は数を増やし、世界に広がって行った。
しかししばらくしてから、現在の人類の天敵とも言える存在が発生した。吸血鬼だ。
最初のひとりとも言われる吸血鬼の王の名前はダンテル。彼は地の底に通じる穴を封印した村近くに居を構え、そこを全滅させた後に、一番近くにある人の多い町、このエリンシュタインに本格的に居座った。
それまで、ここはテイザ国のコクレという町だったのだが、勝手にエリンシュタインと改名し、人間側も恐怖のためかそれを受け入れた。
そこから、吸血鬼の立場はどんどん強くなっていった。
吸血鬼は人間の生き血を啜る。当然それに対抗する人間も現われる。それが教会であり、ハンターと呼ばれる吸血鬼討伐人だ。それ以外にも、有志が立ち上がって自警団を作ったりもした。
大がかりなぶつかり合いも経て、現在は吸血鬼の方が力が強く、教会のハンターも数を減らしているらしい。
それで、吸血鬼の活動する夜間になる前に皆家の中に避難することと、どうしても夜に外出しなければいけないときはにんにくを持つことが、子供でも知る常識となっているそうだ。
「だから、オレたち太陽自由軍は日頃から、にんにくを食べているし、奴らが血を吸いたいと思わないような血になるように努力しつつ、戦い続けているんだぜよ」
そう胸を張るのは拳だこ男こと、通称武王ノリゲ。武術家に教えを受けたり自分で工夫したりして強くなったことで、いつの間にか武王という二つ名がついたそうだ。
なるほど。ふくよかだが強いというと、香港映画界にそういう監督兼俳優がいたな。
「だからあんたたちも、ほら、食べな。にんにくたっぷりロウメーンとにんにくたっぷり包み焼きだよ。
でも、武器も必要だよ、この先生きていくためには自衛の為にもさ」
出してくれたのは、ラーメンとぎょうざだった。
カウンターの向こうから出してくれたのは、通称死神のマリア。銀の包丁と銀の串を武器にしているそうだが、それは万が一のときの為で、太陽自由軍の補給担当だそうだ。
因みに二つ名の理由は、ゴキブリを見つけたときの容赦のなさが原因だという。
「奴らを傷つけることができるのは唯一銀のみ。そうでないと、傷が何回でも再生してしまうのでね。
私が使うのはこの鎌。ノリゲは銀のナックルで殴りつけるのだが。
君たちも銀の武器を所持したまえ」
そう言うのは、通称切れ者のジル。通つ名の由来は、キレやすいのと、すぐに息切れするということらしい。頭がキレるというのではなかった。
彼だけにんにく食や高カロリー食を食べていないのかと思ったが、違った。カウンターの上に出された薬は地球のものとは違うが、間違いない。糖尿病だ。
三人とも、身を削って戦いに身を投じているのだ。
待てよ。これは、吸血鬼に殺されるか食生活が原因の病気で死ぬかのチキンレースなのか?
僕は止めた方がいいのか悩んだが、とりあえずはいい匂いのするラーメンとぎょうざをいただくことにした。
「いただきまーす」
ずるずるとすすった麺は、太めのストレート麺。スープはとんこつベースのこってりしたもので、分厚いチャーシューを麺が見えないくらいに乗せ、炒めたねぎとおろしにんにくがその真ん中にちょこんと乗っている。
「焼き煮豚、柔らかい! 美味しい!」
一口かじって、思わず言った。
「それにこっちのぎょ──包み焼きも、めっちゃ美味いぜ! ごろりとにんにくが一片入って、ホクホクしてる!」
幹彦もぎょうざを絶賛した。
チビたちも、夢中でチャーシューと包み焼きを食べている。
それをマリアは満足そうに見ると、同じようにラーメンを夢中になってすするノリゲとジルと一緒に、ずるずるとラーメンを食べ始めた。
しばし、ずるずるという音が店内に響いた。
うん。今度自家製チャーシューを作ろうっと。
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