退職と再会と

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退職と再会と

 居たたまれない。まさにこの雰囲気はそういうものだった。  誰が見てもイケメンと言い、且つ優秀だと言うであろう先輩が婚約した。それ自体はおめでたい話だ。しかし、その婚約者が僕の元婚約者だったとなれば、微妙になってくる。  彼女は美人で優しいと医師の間で人気もあった皮膚科の看護師で、解剖部のこちらとは接点はなかった。それが、年度末にあった強制参加のパーティーで一緒になり、普段の疲れのせいかいつもより酔いが回り、気付くと彼女の部屋で一緒に寝ていた。  その日のうちに「恋人になりました」的な話が広がり、しかも 「できたみたい」 と言われた。  皮膚科の女性部長に 「まさか無責任な事はしないでしょうね」 と脅された事もあるが、彼女は優しいし、 「ずっと好きだった。話してみたかったの」 と言われ、それならと婚約したというのが流れだ。  まあ、その後妊娠はしてなかったとは言われたが。  しかし別の病院から先輩医師が着任して来た数日後、突然、 「別れて。実はあの日、あなたとは何にもなかったの」 である。  それ以来、皆が気を使うようにこちらを窺って来るので、とてもやり難い。  後から聞いた話では、彼女は計算高いと看護師仲間では言われていたそうで、 「麻生先生、お金持ちみたいだし、大人しいし、うるさいご家族がいないでしょ。狙われてたんですよ」 「そうそう。あの子に飲み物勧められたんじゃないですか?一服盛られたんですよ、それ」 と言われた。  できれば先に教えてもらいたかった。 「マドンナと一時でも婚約したのがお前なんておかしいと思った」  そういう目を向けて嗤う者もいるし、主に女性達には同情されるし、腫れもの扱いされ、職場に居場所がなくなってしまった。まさか 「手口だそうです」 とか言うのもおかしいし。  それに上司が気を利かせたのか嫌がらせなのか分からないが、 「麻生君も、違う環境の方がやり易いだろう」 と専門分野とはまるでかけ離れているにもかかわらず、離島の診療所にとばそうとして来た。僕は何にも悪くないのに。  別に離島が嫌なわけじゃないが、僕は解剖が専門だ。生きている患者の相手は勝手が違うし、離島だと何でも診られないといけないのに、余計僕には無理だ。  どうしようかと悩んでいたら、解剖した遺体の遺族が掴み合いの大喧嘩をしたり、遺産相続を有利にするために解剖所見を変えてくれとあの手この手で「お願い」され、断ったら罵詈雑言を投げつけられて脅され、上司には騒ぎを起こすなと僕が叱られ、ほとほと嫌になってしまった。  それで僕は、取り敢えず今の病院を辞める事にしたのだ。  幸か不幸か仕事が忙しくて給料もボーナスも溜めるばかりだったし、相続しているマンションと商業ビルからの家賃収入で生活費には困らない。しばらくはのんびりしよう。いや、もう隠居しよう、と。  僕は私物をまとめたカバンを持ち、ドアの横にある医局員のネームプレートから「#麻生史緒__あそうふみお__#」のプレートを外した。  私物を持って家へと向かう。  平日にのんびりと歩くのはこれが初めてではないが、休暇とは違う気持ちがする。これが自由というものか。  これからする事はもう決めている。幸いにも贅沢をしなければひっそりのんびりと暮らして行けるだけのあてはあるので、若隠居だ。それから家庭菜園でもして、野菜なんかを植えよう。あと、ペットを飼うのもいいな。  じゃあ、荷物を置いたら買い物だな。まずは家庭菜園の準備だ。  僕は足取りも軽く、家路をたどった。  が、思いがけない顔を見かけた。 「幹彦?今日休み?」  それは幼馴染の#周川幹彦__あまねがわみきひこ__#だった。運動神経が良く、特に剣道と居合は師範の資格を持っている。顔もいいし、人が良くて明るく、昔からよくモテた。高校までは学校も同じ仲のいい幼馴染で、食品会社に就職したのを機に会社近くのアパートに一人暮らししている。 「あ、史緒か」  幹彦はほっとしたように笑い、小さく溜め息をついた。 「いやあ、退職したんだ、俺」 「奇遇だな。僕もだよ」  僕達はあははと笑ってから、近くの通りすがりの人の「無職なの」という目に気付き、気楽そうな顔を引き締めた。 「まあ、お茶でもどう?」 「おう」  茶飲み友達と昼間からのんびり。正しい隠居生活の第一歩だ。
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