迷い鬼

1/10
20人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
「こんにちは~、宅急便で~す」  何度もインターホンを鳴らすが、一向に人の気配がない。裕子は帽子をとると汗で額に張り付いた前髪を無造作にかき上げた。  西の空に傾いた夕陽が、集合団地のくすんだモルタル壁を血のような赤色に染めている。九月も半ばを過ぎたというのに、肌に纏わりつく不快な熱気は一向に衰える気配がない。  塗装の剥げたスチールの扉の横には、埃を被った玩具や小さな自転車が打ち捨てられている。顎まで垂れた汗を肩で拭おうとして、裕子は動きを止めた。  視線の先、外廊下の奥に小さな人影が見えた。それは白いワンピースを着た少女だった。目を凝らすと、その顔の大部分は爛れてひきつれた痕で覆われていた。  裕子は頭を振ると、もう一度インターホンに手を伸ばす。 「お届け物で~す、誰かいませんか~」  ガチャン  唐突にドアに設置してある郵便受けが開いた。身を屈めて細長い隙間を覗くと、二つの瞳と目が合った。どうやら子供のようだ。暗がりの中で、幼い瞳が瞬きもせず裕子の顔を見つめている。 「よかった~。おったんやね~。君、一人? 届け物があるからドア開けてくれへん?」  裕子は小脇に抱えた発砲スチロールの小箱を掲げて見せた。 「これ、要冷凍なんよ。お母さんいてる?」  郵便受けの奥の顔はしばらく裕子を凝視したあと、小さく首を振った。 「おらへんの? 困ったな~。とりあえず君、受け取って冷凍庫に仕舞ってくれへん?」  幼い瞳に怯えの色が走ったのを察知して、裕子は優しく語りかけた。 「あ、知らん人は部屋に入れたらあかんって言われてる? そうやな~最近物騒な事件も多いしな。でもな、この腕見てみ。こんな細いか弱い腕やったら君でもやっつけられるで。だから安心し」  裕子は郵便受けに向かって精一杯の笑顔を向けた。が、何の反応もない。  これはあかんかも…  諦めかけたとき、郵便受けが閉じると同時にガチャっと扉が解錠する音がした。 「あっ、開けてくれたん?」  ドアノブを回してゆっくりと扉を開く。瞬間、屋内からじっとりと湿った熱気が漏れ出し、遅れて生魚の腐ったような異臭が裕子の鼻腔を直撃した。  裕子はむせ返りながらも、息を止めて扉を引き開けた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!