ローズフォンデュ

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 視界を埋め尽くす、薔薇の花。その毒々しい赤に、わたしの視界はむせかえった。掻きわけても掻きわけても、薔薇は絶えない。  そういえば、薔薇には刺があるんだっけ?  ふとそう思って自分の手を見たら、傷だらけで赤く濡れていた。  なんで痛くないんだろう?  わたしの両手を染める液体の赤は、なんだか白々しくて、ニセモノみたいだった。  顔を上げれば視界に飛び込む花びらたちも、ニセモノみたいだ。妙に生気のある、毒々しい赤。わたしの血液よりもずっと綺麗な、赤。  わたしの血液よりもずっと生き生きとした、赤。  自分に何かを言い聞かされたみたいに、首を傾げた。とてもとてもわざとらしく。それはわたししか知ることのない、わざとらしさだ。わたしだけが知っている、わたしの嘘だ。  脳裏が取り留めのない言葉で満ちてしまうよりも早く、わたしは薔薇を掻き分ける動作に戻った。  ほんとうに、くらくらするほど、赤い。  視覚以外の感覚が全て死んでしまったように、花の香りなんてしないし、温かさも冷たさも感じないし、花びら同士が擦れあう音も聞こえないし、傷は増える一方なのに痛くない。  ただただわたしの視覚に、毒々しくて生き生きとした赤が飛びこんでくる。  目が痛くなるぐらいに——いや、実際のところ今のわたしの痛覚は機能していないから痛くないのだけど——赤い。  深呼吸しようとしたとき、わたしは今更その違和感に気がついた。  息ができない。  息ができない。息が吸えない。息が吐けない。今までどんなふうに呼吸していたか、思い出せない。それに気付いてからやっと、わたしの体は苦しみを訴える。  でも、できないものはしょうがない。呼吸の仕方なんて誰かに習った覚えもないから、思い出せなくて当たり前だ。  ひきつる肺を無視して、わたしはまた花びらを掻きわけた。  その無意味な作業に、いつピリオドを打ったのか、わたしは覚えていない。  ――――――――――  歩道をあてどなくふらついていた。春だというのに陽射しは容赦ない。これも地球温暖化だかなんだか、の、せいなのだろうか。とは言っても、ちょうど一年前の気温がどんなだったか、全く思い出せない。  だから。 「今年の春は暑いね」  そんな、適当なことを口走った。 「暑くない」  けれど、ミヤが発したにべもない一言に、俺の言葉は打ち砕かれた。 「ていうかさ、どこ行くの? 俺、まだ行き先を聞いてないんだけど?」 「黙って着いてきてよ」  行き先なんてどこでもいいけれど。  ——という一言を、飲み込む。あんまりミヤを甘やかしちゃいけないから。ミヤがいつかは一人でも平気で生きていけるようになるために、俺は少しだけ自分を律する。  ほんとうは、離れたくない。  けれど、もうすぐ死ぬから。死んだらもう、会えないから。  脳裏で戯れ言を掻き回しながら、ミヤの足取りを追う。  ミヤは突然、立ち止まった。 「……ここ」  その指差す方に目を向けると、花屋があった。どの街にもありそうな、小さな花屋。そこだけ別世界のように、鮮やかな花たちが、ミヤと俺を迎えた。 「いらっしゃいませ」  店主とおぼしき高齢の女性の声は、花の鮮やかさに完璧に負けていた。  ……花って、こんなにあるんだ。  俺の感想はそれだけだった。この世界にどんな花が咲いているのか、俺は全く知らない。なんだか、上京した田舎者のような気分で、花を眺める。 「あのね、」  ミヤの声で、俺の心は現実世界に引き戻される。 「赤い薔薇……、薔薇の花束が、欲しいの」  俯きながら消え入りそうな声で、ミヤはそう言った。  甘やかしてはいけない、と思うより早く、俺は店主らしき女性に声をかけたていた。 「赤い薔薇、五十本ください」  ミヤが驚いて息を飲むのが聞こえた。俺があっさりミヤの言うことを聞いたから、びっくりしたのだろうか。  ——気にするなよ。それも今日で終わりなんだから。最後くらい、甘やかさせてくれよ。  店主は手際よく、薔薇を五十本数えあげて、綺麗な包装紙に包んでくれた。ひたすらに赤い、花束。こうして見ると、ちょっと気味が悪いくらいだった。  けれどそれを抱えるミヤの笑顔に、いつもとは違う柔らかな光が射した気がして、俺もふっと息をついた。 「ところで、その花束、どうするんだ?」 「……誕生日プレゼント」  照れ隠しみたいに俯いて、ミヤは俺の問いに答えた。 「誰の?」 「わたしの……」  口ごもるミヤの次の言葉を待ちながら、俺は脳裏に、ミヤと関わりがありそうな人間を思い浮かべた。  ——いや、思い浮かべるのに失敗した。ミヤと俺を除いたら、もうその世界にはニンゲンなんていなかった。でもミヤも俺も、今日は誕生日じゃない。  じゃあ一体誰の?  俺が考えるのに飽きるより少しだけ早く、ミヤはそれを口にした。 「わたしの……、こども」    ――――――――――  わたしはもう、薔薇の花びらを掻きわけるのをやめていた。血だらけの指を見ながら、その光沢に見蕩れる。  ニンゲンにはこんなに綺麗なものが、流れているのに。  ほんとうは、この薔薇の花びらたちから逃げる術を、ずっと知っていた。ただ体を起こせばいいだけ。  ただ、体を起こす。それだけ。  そうすれば目に映るのは、白い浴室の壁と天井。浴槽にはお湯の代わりに、薔薇の花が詰まっている。  そして視線を泳がせれば、視界の隅に男がいる。  男は、両手を血液——それは、彼のものではない——に濡らして、惚けた顔で突っ立っていた。  ……オトウサン。  薔薇の毒々しい赤では隠しきれなかった、ニンゲンの血の色。オカアサンの遺伝子に乗せられてわたしにもたらされた、血液の色。 「違うんだ……、俺は……、俺が殺すのは、自分のはずで……、ミヤじゃなくて……」  オトウサンが、うろたえている。その視線の先にあるのは、さっきまでオカアサンだった肉の塊。全身を自分の血液で濡らして、浴室の隅に転がっている、オカアサン。  違わないよ、オトウサン。そんなに怖がらないで。  早く……、早く、早く。  たった今この世界に産み落とされた我が子を、早く抱きあげてください、オトウサン。  そしてわたしはきっと、この赤い血が似合う生き物に、なりたい。
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