ただ丸いだけの月

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「月が醜いですね」  下校時間をとっくに過ぎた校門の前。突っ立つこと数時間、やっと出てきた現代語教師のフルヤに、わたしはそう言った。 「そうだな」  期待外れの返答に少しだけ落胆しつつも、フルヤの後ろを着いて歩く。  今日の午前中にあったフルヤの授業を思い返す。  夏目漱石が “I love you.” を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話を、フルヤは楽しそうに話していた。そのときのわたしはなんだか鬱屈としていて、”I hate you.” は「月が醜いですね」になるのだろうか、なんてことを考えていた。  それをフルヤに言ってみたくなったのは、フルヤが嫌いだからというわけではない。 「ところで」  歩きながらフルヤが声を発する。 「『月が醜いですね』ってのは、”I hate you.” ってことであってんのかな?」  なんとなく意地の悪い笑みを浮かべながら、そう続けた。  分かってたんだ。分かってて「そうだな」って答えたのは、それは……。  わたしの思考を、フルヤの声が遮る。 「まあ、教師が生徒に嫌われるのなんてよくあることだ。むしろ俺の授業をちゃんと聴いてくれてたようで嬉しいぐらいだ」  そういうことじゃない。けれど、口には出せなかった。  またフルヤとわたしは黙り込んで夜道を歩いた。交差点に差し掛かったとき、フルヤがわたしに手を振った。ここからは別の道だから。 「気をつけて帰れよ」  そう言って、信号が青に変わった横断歩道に踏み出そうとしたフルヤの背中に、わたしは叫んだ。 「先生!」  泣きそうで声が震えてしまったのが少し恥ずかしかった。けれど、フルヤはわたしの呼び留めに応えて、横断歩道から足を引いた。 「ん? なんだ?」 「先生……、月が、綺麗ですね……」  それはもう掠れ声みたいになってしまったけれど、フルヤの耳にちゃんと届いてくれたようだった。 「それは、いつか本当に好きな人に出逢えたときに言いなさい」  少し困ったような笑顔で、優しく諭すような声で、フルヤはそう言った。そしてもう一度わたしに手を振って、今度こそ横断歩道の向こうに消えてしまった。  本当に好きな人? 誰?  やっぱり、生徒が教師を好きになるなんて、生徒が教師を嫌いになるのと同じくらいに、ありふれたことなんだ。  わたしは、フルヤが本当に好きだった。  好き、だった。  見上げると夜空には、綺麗でもなく醜くもない、ただ丸いだけの月が輝いていた。
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