第四章1  『日記』

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第四章1  『日記』

 早希と了は、夜が更けていく森の中を彷徨っていた。二人とも疲労困憊した様子で、足取りも重い。特に了は生気が見えないほど、虚ろな目をしていた。了の状態を伺うように、早希が覗き込む。 「あんた、大丈夫?」  了は早希のほうを向かずに、「ああ」とだけ答えた。  しばらく何も言わずに歩き続ける了だったが、糸が切れたように膝から崩れ落ちる。早希が咄嗟に肩を支えた。 「全然大丈夫じゃないじゃない。ほら、あそこで少し休も」  木の根っこが、丁度座れそうな形で地面からせり出ていたので、二人は向かい合うように腰を下ろした。  座った後も、了は、やはり何も喋らずに項垂れている。早希もまた、自身に起きたことを振り返り、呆けていた。皆を、共子を失ったことを思い出すと涙が溢れた。辛さのあまり、昨日の今頃は何をしていただろう、と現実逃避している自分がいる。  目の前のヤクザも、悲しみ、落ち込んでいた。恐らく、西村と呼ばれた男とは親や兄弟以上の関係だったのだろう。父親を失ったころの自分と重ね、了に同情すらしてしまう。こんなときしてやれるのは、見守ることだけだ。 「西村さん、死んじまったんだよな」と沈黙の中、先に口が開いたのは了だった。  そんなことないよ、きっと生きてる、と普段の明るい調子で返そうとするも、早希自身、気休めを言える気分でもなかった。 「可能性は低いのかもしれない。でも、それはあんたを助けようと――」 「分かってんだよ、そんなこと」早希の返答に、了は食い気味に答えた。 「ごめん」 「いや、ちげえよ。怒ったわけじゃねえ。ああ、もう、くそ!」了はもどかしそうに、頭を掻きむしった。 「うん。分かってる」 「……そうか」  風に揺られた葉のざわつきが止む。静けさが、より一層、二人の気まずさを増していく。  すると、了は何かを確かめるように数回うなずき、「置いてけよ」と唐突に沈黙を破った。理解のできない了の発言に早希はぽかんとする。 「は? 急に何言ってんのよ」 「逃げたときから、考えてたんだよ。俺はよ、あの人に憧れてこの世界に入ったんだ。あの人がいない世界ってなんだろうな、ってな。きっと、生き延びたところで、もう意味ねえんだよ」 「何、一人で悲劇のヒーローぶってんの。じゃ、あたしはどうなるのよ。友達が、共子が、殺されちゃったんだよ」 「知らねえよ、そんなこと」 「酷い、知らないって何よ」 「俺にとっては西村さんが殺されたことが重要なんだ、すべてなんだよ。それにな、そもそも、おまえの仲間が変なじじいに関わってなかったら、こんなことにもなんなかったんだ」 「それについては、謝るしかない。けど、誰も呪いや、あんな化け物みたいなのがいるなんて信じられないじゃない」早希は言う。  了はポケットから鍵を取り出すと、ぶっきらぼうに早希に差し出した。 「何よ、これ」 「見りゃ分かんだろ、鍵だよ。車の。これやるから、てめえだけ逃げろ。運転ぐらいできんだろ。俺はもういいよ。あいつに殺されたって、どうでもいい」  早希は鍵を受け取ると、眉をひそめた。早希は、諦める、という言葉が昔から大嫌いだった。幾度も挑戦した後であれば、致し方がないと捉えることもできるが、了の行為は明らかに、何もせず、ただ諦めたとしか思えない。早希は苛立ちで言い返すよりも先に、了の頬を叩いていた。 「いってぇな、何すんだよ!」 「本当に馬鹿。何かっこつけてんの。何が、もういい、よ。勝手に諦めないでよ! あの化け物見て怖がってたくせに。怖がってたってことはさ、生きたいってことでしょ。違う?」 「そりゃそうさ、怖かったさ、生きたかったさ。だけど、生きたところで、生きる目的なくしたんだぜ? もう意味ねえだろ」 「本当にそれでいいの? そんな感じで、あの人にちゃんと顔向けできるの? 今のあんたを助けたかったわけじゃないよ、きっと」  了は目を見開き、口を噤んだ。 「……なんでだよ」 「何がよ?」 「なんで、今日知り合ったばっかの他人を、そんなに気にかけんだよ。たった数時間の間柄だ。死んだっていいだろ、俺なんか」  早希は右手で頭を抱えた。 「は? 俺なんかって、何? もしかしてだけど、ヤクザなんか、って意味で言ってる?」 「……ああ」 「ほんっとうに、馬鹿なのね」 「てめえ、また言いやがったな」 「馬鹿じゃなかったら、なんなのよ。そりゃ、あんたは大を撃った人の仲間だし、あのときは正直、許せなかった。でもさ」 「でも、何だよ」  早希は上を見上げると、葉の隙間から見える星を見た。和真が言った通り、東京では見ることができないであろう、星たちが強く輝いている。 「あたしのお父さんね、刑事だったの」 「マジかよ」これも一種の職業病と言えるかもしれない。刑事という単語を聞いた了が軽く仰け反ってみせると、早希は苦笑する。 「もうこの世にはいないから、安心しなさいよ。正義感が強過ぎて、子供を助ける代わりに自分が死んじゃった……。それに、もし生きてたって、この場にはいないんだから」早希は立ち上がり、また星空を見つめた。 「お父さんがね、生きていたとき、口癖みたいに言ってたわ。ヤクザもんだろうが、一般人だろうが、いい奴はいいし、悪い奴は悪い。それに、命は平等だって」  早希は俯く了に顔を向け、左手を腰に手をあて、右手で指を差す。 「とにかく。ヤクザだから、生きる希望を失ったから、野垂れ死んでも構わないとか思ってんでしょ? ヤクザだろうが、誰だろうが、死んでいい人間なんかいないの。だから馬鹿だって言ってんのよ」  了は顔を上げ、興奮した様子の早希を見ると、何を思ったのか、笑い出した。 「な、何よ、馬鹿にしてるの?」 「わりぃな。いや、そういうつもりじゃねえんだよ。ただよ、誰かと似てんなって思ってよ」 「何それ」  了は、にやけながら首を横に振る。 「いや、いいんだ。分かった、分かった。確かに、おまえが正しいし、言うとおりだよ。死んでいい人間なんていねぇよな」 「なんなのよ、もうっ。絶対馬鹿にしてるでしょ。そもそも、あんたって」 「了だ」 「え?」 「な、ま、え。了だ。あんた、じゃねぇよ」 「そか。あたし。あたしは、早希」 「知ってるよ、自分で言ってたじゃねえか」了が鼻で笑った。 「あ、覚えてたんだ」 「だから、馬鹿じゃねえって言ってんだろ」と了は人差し指をこめかみにとんとんと当てた。了に人を馬鹿にした態度が戻る。早希は元気を取り戻してくれた、と嬉しくも思い、やはり鼻につくとも思う。気持ちを素直に表せない困った男だと、顔をしかめた。 「なんだよ、その顔は。さてと、もうちょっと生きるためにも、こんなとこから、とっとと逃げださねぇとな」了は腰を上げて立ち上がる。 「うん。まずは車ね」早希は笑顔でうなずいた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※    山の天気は変わりやすいという言葉通りに、知らぬ間に空に現れてきた雲で月や星は隠れ、夜の闇はいっそう深くなっていく。草木を踏み潰し、のそ、のそ、とふらついた足取りで、男が一人、森を彷徨っている。顔からは血色が失われていて、あたかも死人のようだった。だらりとした手からは血が流れている。血など気に留める様子もなく男は歩き続ける。男は、ここで何をしていた、ここで何をしている、確か先ほどまで……、と答えを求めた。しかし、思考する力が奪われていくのを如実に感じて、考えることを諦めていった。  脳の働きは衰えても、体は何かを求めて、進むのを止めようとしない。制御の利かなくなった体は立ち止まっては周りを見て、進んでいくことを繰り返す。目の前には大きな木が現れる。早希と了が根に座っていた木だ。根に行き当たると、男の足は止まった。人がいた気配を探るように、ここでも首を左右に動かす。視線が二人の進んでいった方向へと定まると、男はまた動き始めた。狩人が獲物を追い詰めていくかの如く、着実に二人へと迫っていく。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  大に騙されたことで、今、自分たちがいる位置を把握しきれていない早希と了。ログハウスを出た時間、山道の様子、二人はお互いの記憶をもう一度呼び起こして、了が乗ってきたセダンを目指していた。探しているうちに、怪しんでいた雲は広がっていき、遠くでは雷鳴も聞こえてくる。了は困ったように眉を寄せ、空を見上げた。 「くそ、探すにしても、雨が降り出したら厄介だな」  前を歩く早希が葉を手で避けると、前方を指差し、了の肩を叩く。 「ねえ、あれって」早希の指が示す先には、古びた一軒家が見えた。 「こんなところに、家?」  家の前に辿り着いた二人は、開きっぱなしの扉の前に立つ。了が家を見回しながら、「ま、位置的にも、ここが例のじじいの家ってところだな。そんで、あいつらの話が正しいなら、この奥には……」と言うと、ジッポライターに火を点け、扉の中を照らした。土間には猟銃で頭部が吹き飛ばされた状態の老人が横たわっていた。 「……だよな」と了はやるせない表情で言う。 「まだどこかで嘘だと思いたかったけれど。これを見ちゃったら、もう、無理だね」 「ああ」  空からは、ぽつり、ぽつり、と雨粒が降り始める。 「さすがに降ってきたら、このまま進むのはまずいよね。しばらくここで雨宿りしなきゃ、かな」と早希が提案した。 「それしかねえよな。ったく、車までもう少しかもしれねえってのによ」  了は老人に目をやると、部屋を見渡して、扉の横に立てかけてある鍬を見つける。 「ただよ、流石にこんな状況じゃ、『はい、お邪魔します』ってわけにもいかねえよな。本降りになる前に埋めてくるから、少し待ってろよ」と了は言い、ライターを早希に手渡した。  了はぐったりした老人の足を掴むと、家の横に運んでいき、鍬を使って穴を掘り始める。 「ったく勘弁してくれよ。何の因果で、一日に二度も穴堀りしなきゃなんねえってんだ」と愚痴を吐きながら、了は穴を掘り続けた。  穴を掘り終えた了は、老人の体を入れると、土を被せていく。その上に墓標に見立てた石を置き、両手を合わせ拝んだ。 「こんなことになっちまったが、成仏しますようにっと」  本降りになってきた雨から逃げるように、埋葬を終えた了が家の中へ駆け込むと、明かりが灯っている。早希は居間にある囲炉裏に薪をくべ、火を焚いていた。家の中には、時代物の家事道具や家具など、昭和の資料館にあるような物が置かれている。都内で育ち、帰省する田舎のない了にとっては、異国のようにすら感じた。それらを物珍しそうに見つめながら、了は居間へと上がる。 「こんな家、日本にまだ残ってんだな。それに、古い割には片づいてる。俺の部屋より、全然綺麗だ」 壁に寄りかかり、どこからか持ってきた古びた書物を読んでいる早希が、「でしょうね。想像容易いわ」と澄ました顔を誇張した。  すかさず了は、「うっせえな。ほっとけよ」と憎たらしい言い方で返す。  了はポケットからライターを取り出し、たばこに火をつけ、居間を物色し始める。とはいえ、居間の奥には棚があるだけで、特にめぼしい物はない。棚にも鍋や茶わんなどの家事用具や木の箱が置いてあるだけだった。  ふと、骨の入った小箱を思い出す。やばいもんでも入ってんのか、と箱を取り出して開けた。中には何も入ってはいない。つまんねえな、と箱を棚に戻そうとした時、奥に何かを見つける。取り出してみると、茶色いバトンのようなものだった。了は、まじまじと見つめた。筒の先端には動線が出ている。筒に、動線……、記憶を呼び覚ますも、あれしか思い浮かばない。物体の正体を認識した途端、咥えていたたばこを手に持ち替え、素早く遠ざけた。 「マジかよ。じじいは戦争でもおっぱじめる気だったのか」  早希は一度集中すると周りが気にならなくなるタイプだった。独り言にしては大きめだった了の声も、早希の耳には入ってこず、ぼそぼそと言いながら、書物を読み耽っている。  個人的にはかなり印象的な言葉だったんだけどなぁ……、と注意を引きたい了は大げさに咳ばらいをしてから、「ダイナマイトだよな、これ」と声を張った。 「え」  書物に夢中になっていた早希も、さすがに了から発せられた物騒な言葉に気を取られると、読むのを止めて了を見る。了はたばこを咥え直し、両手でダイナマイトを捧げるように掲げ、早希に見せつけた。 「何でそんな物が。って、たばこ! 本物だったら危ないじゃない。爆発したら、どうすんのよ」 「あ? もし本物だとしても、湿気って使いもんになんか、なんねえよ。試してみっか?」了はダイナマイトの動線にたばこの火を近づけてみせる。了の態度が冗談だと分かると、早希は空を仰ぎ、「はいはい、どうぞご勝手に」と苦笑いをしてから、また読書に戻る。 「おまえこそ、どっから持って来たんだ、それ? さっきから熱心に読んでるけどよ。何か面白えことでも書いてあったか」  早希はページを捲り、「さっきあんたが、お爺さん供養しているときに、奥の部屋で見つけたの。これさ、たぶんだけど。日記だと思う」と答えた。 「日記だぁ?」 「うん。日記というか、記録というか」 「やめとけ、やめとけ。他人の生活、覗き見する趣味はよくねえよ」了は手を振り、壁に寄りかかって座ると、目を瞑った。  早希は、ぼそぼそと日記を小さな声を出し、確認するように真剣な眼差しで読み続ける。気になる……。言ってしまった手前、俺も読みたいなどと素直に訊けない。聞き取りたくても、早希の小さな声は雨音で掻き消されてしまう。気になって美味く感じないたばこを指ではじき、囲炉裏へ投げ捨てた。  了は片方の目を薄目にして、ちらりと早希を見ると、「よう、そんなに面白い内容なら、俺にも聞かせたらどうだ」と声をかけた。 「何よ、他人の生活を覗く趣味はないんでしょ」 「そうだけどよ。そんな顔して読まれたら、爺さんがどんな変態な趣味でも持ってたのかって、気になるだろ」 「最初から、素直にそう言えばいいでしょ。それに、おあいにくさま。あたしは、そんな悪趣味なことはしません」早希は舌を出す。 「なんだ、おまえも可愛い顔できるんだな」と了は早希をからかった。事実、そう思ってしまった自分の本心に気付く。この異常な状況下を除いて、普通に出会っていれば、声をかけていたかもしれない。あくまでも、ヤクザという職業を選んでいなかったら、という仮定の上だが。 「うるさいな。真面目な話、面白くて読んでいるんじゃなくって、これに書かれていることって、もしかしたら、あいつのことなのかも」 「あいつ?」  「殺人鬼」  早希は了の隣へと移動して座ると、「ほら」と書物を見せつけた。了が覗き込むと、書物には、確かに筆で書かれた文面が書き連ねてある。早希は冒頭に戻り、内容を声に出して読み始めた。 「あの日のことは忘れもしない。今でも思い出す忌まわしい記憶。私がもし死んだなら、約束を守り、どうか私に触れないでほしい」
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