第四章2  『西村』

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第四章2  『西村』

 一九四八年  夜の森を一人の女が、疾走している。英夫の血を浴び、顔が紅く染まった千代だった。  やがて、千代が森を抜けると、民家が見えてくる。どの家にも明かりは灯っていない。住んでいる者でなければ、そこが村かどうかすら認識はできないであろう。村道を進んでいくと、民家の扉付近や道にも血を流し、倒れた人が見えてくる。やはり、皆殺されてしまった、でも今は……。千代はそれらを気にも留めず、走り続けた。静寂が村を包み、聞こえてくるのは、民家の間を通る千代の足音だけだった。  千代は村の通りのどんつきにある家に辿り着くと、一気に引き戸を開けた。 「きよしっ!」千代はしきりに部屋の中を見回した。部屋の中は暗く、物音もしない。力が抜けた千代は、へなへなと土間に座り込んだ。村の皆と同様に、息子もあの化け物に殺されてしまった。  千代の眼には次第に悲しみの涙が溢れ出てきた。しかし、居間の奥から、「おっかぁ」と馴染みある声が聞こえると、息子の清が生きていたことを確信して、それは歓喜の涙へと変わった。 「よかった、無事だったんだなぁ」と千代は土間に降りた清に近づいていき、抱きしめようとしたが、その手を止め、軽く握りしめた。清は千代の前に立つと、心配そうに血がついた母の顔を見つめる。 「おっかぁ、どうしたんだ、その顔。怪我したのか? いてえのか?」  千代は腰に付けていた手ぬぐいで血を拭いながら、「ああ、大丈夫だよ。どこも怪我なんかしてないよ。おまえも大丈夫だったんだね」と言った。 「うん、大丈夫だ。でもさっきから、皆が外でおっきな声で、叫んでたから、怖かったよ。なぁ、おっとうは? おっとうは、どこさ行ったんだ?」  千代は開けっ放しの扉から道に倒れている人の死体を見ると、清に見えないように体で隠した。 「おっとうはな、遠くにいっちまったよ」 「いつ帰ってくるんだ?」 「もう、帰ってこれねぇんだ」 「どうしてだ、なんで帰ってこれねえんだ」 「帰ってこねぇもんは、帰ってこねぇんだよ!」と千代は声を荒げた。清は急に大声を出した母に怯え、何も言えずに目に涙を溜めた。 「もう、だめなんだよ。こんな、こんな状況で生き残ったってなあ」千代は手を清へと寄せていく。着物がずれ、千代の腕が露見していくと、黒い手形の痣が見えてきた。涙を流しながら、千代は息子の腕を強く掴んだ。 「これで、おまえも、おっかぁも、おっとうのとこさ、一緒に行くんだよ」 「どうしたんだ、おっかぁ。痛いよ。離してよ!」 「黙ってろ、あいつが来て、今に楽になっから!」千代が殺気立った顔で怒鳴った時、千代の胸から鋭い鉄の塊が飛び出してくる。どこからともなく現れた殺人鬼が、千代の背を大鎌で突き刺していた。 「おっかぁ!」  鎌からずり落ちるように、千代の体は土間の床へと落ちていく。斬られた千代は優しい表情を取り戻すと、「き、きよし」と力なく呟いた。  清は母を失った悲しさと、目の前にいる鬼のような者を目にした恐怖とで、感情を操作することすらできずに、じっとしている。千代は薄れゆく意識の中、ふと何かに気付いたように目を見開くと、死力を注ぎ、その身を起こした。 「きよし……いいか、おめえは――」 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  扉に物がぶつかったような激しい音がすると、早希は驚く声を上げ、日記を読むのを中断した。 「なんだ?」了が扉のほうに首を向ける。早希は日記を床に置くと、了の腕にしがみつき、「あいつが、来たの?」と心細そうに言う。  もし殺人鬼だとすれば、恐らく勝ち目はない。ただ、この家には逃げる扉は玄関しかない。奇襲をかけ、その隙に逃げるしか方法はなかった。了は土間へ降りると、壁にかけてあった大きな鉈を手に取り、足音を立てないよう、扉へと近づいていく。早希も了の袖を掴んだまま、後に続いた。  扉からは、バタンと物がぶつかる音が、また聞こえてくる。音に怯みながらも、二人は扉の前に歩み寄っていった。了は左手で鉈を構え、右手を扉にかけ、早希と顔を合わせる。了は、いくぞ、と早希に確認を取るようにうなずくと、扉を引き、「おらっ!」と外に向かい、鉈を素早く振った。  鉈は誰にも当たることなく、空を斬る。扉の向こうには誰の姿も見当たらなかった。了は拍子が抜けた様子で、体勢を戻す。 「なんだよ、風か。びびりすぎだわ、俺ら」了が肩をすくめて、後ろの早希を見ると、血の気が引いた顔で口を押さえている。  誰もいなかったはずの玄関には、いつの間にか人影が現れていた。了は早希の表情から、そのことを瞬時に読み取ると、再び鉈を背に向けて振る。一撃だ、一撃入れてしまえば、どうにかなる、はずだ。だが、鉈が人影に当たることはなかった。避けられたからではない、了が意図的に止めたのだ。了は人影の正体を見て、振り下ろす手を止めざるを得なかった。  刃の先には、殺されたはずの西村の姿があった。了は脱力したように手を下げ、鉈を離した。 「西村さん! よかった。やっぱり生きてたんすね」了は喜びの声を上げた。西村は答えずに、サングラス越しに了を見つめている。 「あんな奴にやられるわけないっすよね。大丈夫っすか、怪我とかしてないっすか」  西村が生きていた、と喜ぶ了をよそに、早希は例えようがない悪寒を感じ取っていた。どう説明したらよいか、分からない。けれど、このままでは……。西村は何も言わずに、右腕を了に向けて、ゆっくりと掲げていく。 「だめ!」早希は咄嗟に了の腕を引っ張った。意識していない方向から力を加えられ、体勢を崩した了は後ろへ倒れた。訳が分からない。西村との再会をなぜ、邪魔するんだ。 「なんだよ。こんなときに、ふざけんなよ」と了が見上げると、西村は早希の左腕を掴んでいる。 「え、西村、さん?」  混乱している了の前で、西村から魂が抜けたかのように生気が失せ、体は、すとんと地面へ落ちていく。了は思考が追いつかず、西村を受け止めることもできなかった。横たわる西村を見つめ、了が狼狽える。 「どうしたんすか。冗談はいいっすよ。起きて下さいよ」了は西村の体を揺さぶってみる。西村からは、声も、動きも、反応はない。 「なんでだよ、あいつぶっ殺して、ここまで来てくれたんじゃないんっすか。西村さん、西村さん!」  了の再三の呼びかけにも、西村の体は動かない。心臓に耳をあてると、鼓動も聞こえない。 「嘘だ、嘘だ、嘘だ。こんなの絶対嘘だ!」了は両手を西村の胸にあて、心臓マッサージを繰り返す。了の涙が西村の顔に落ちてくる。 「戻ってくださいよ、西村さん。戻って下さい!」  了の悲痛な叫びも西村には届くことはなく、西村が息を吹き返すことは無かった。早希は何もできずに、了の様子をただ見守った。西村が現れ、早希に引っ張られ、見たら西村は早希を触って……、どういうことだ。  荒い息のまま、「……なにしたんだよ」と了は呟くと立ち上がり、早希を責め立てるように目を吊り上げた。 「おめぇ、いったい西村さんに何したんだよ!」 「見てたでしょ、何もしてない。とにかく、まずいって感じたの」と訴える早希の体は震えていた。 「まずいってなんだよ。さっきまで生きてたんだぞ。おめぇが―」興奮を抑えきれない了は早希に説明を求めようと、肩を掴もうとするが、「触っちゃ、だめ!」と早希が拒むと、その手を止めた。 「どういう理屈かは、分からない。けど、ここに来た時点では、もう、この人は恐らく死んでいた、と思う」 「死んでた? ふざけんな、ちゃんと立ってたじゃねぇかよ」 「だから、分かんないってば、あたしに言われても。けど、きっとこの人は呪いを持っていた。持っていたからこそ、ここまで来れたんだと思う。呪いの力で。そして呪いは、今、あたしに感染された」 「呪い? そんなん、なんで分かんだよ」と了が声を上げると、早希が言った事を証明するように、西村が触った早希の腕の部分には、手形の痣がじんわりと浮かび上がってくる。和真、みさえ、大、共子、殺されていった皆にあった痣だ。 「マジかよ。くそっ、なんでだよ! なんで、西村さんが、おめぇに呪いを感染さなきゃなんねぇんだよ!」  早希が首を振り、顔をしかめる。 「分かんないって言ってるでしょ! 皆が殺されたのだって、呪いだって、化け物がいるのだって、全部信じられないし、どうしてとか分かんないよ、あたしに聞かれたって! 分かるわけないじゃん!」  西村が死んだ、なぜ早希に呪いが感染した、と了はやり場のない怒りを滲ませて早希の痣を見つめた。早希もまた、共子や皆もこんな気持ちだったのか、と希望を失った目で痣をみつめる。 「なんで西村さんから、俺を庇ったんだよ?」了は申し訳なさそうに訊く。 「……それも、分かんないよ。勝手に体が動いただけ。あんたがあたしを助けてくれたときだって、そうだったでしょ、きっと」 「……わりぃ」 「別に謝るところじゃない。でも、あたしに呪いがかかったのは事実。つまり、あいつがくる」早希は震えを止めるように、腕の痣を手で押さえつけた。  了は外へ飛び出すと、空を見つめ、「雨も止んだ。早く逃げるぞ」と早希の元へ戻った。早希は下を向き、答えない。 「どうした? ちんたら、すんなよ」 「ねぇ、ほんとに逃げれるのかな。逃げる意味、あるのかな」 「あ? らしくねえな。そんなに心配したってよ、始まんねえだろ」 「そういうことじゃなくて。一緒に逃げてくれるのがさ、当たり前に思っていたけど、状況は変わったでしょ。あたしだけがここに残ればいいんじゃないかな。あいつは痣を持った、呪いにかかったあたしを殺しに来る。だから、あたしがここに残ればさ。うん、そうだよね、そうすればいいんだ。一緒に逃げようなんてさ、馬鹿な考えだった」  早希の言葉を聞くと、了はがっくりと肩を落として、息を吐いた。 「馬鹿かよ」 「はぁ? 何よ、馬鹿って。馬鹿はあんたでしょ。あたしの言ってること、どこが間違ってるっていうのよ」 「いいや、今回ばかりは、どう転んだって、おまえが馬鹿だよ」  了はスーツの上着を脱ぐと、腰を落とし、西村にそっとかぶせた。 「おめえが言ったんだろうが、『死んでもいい人間なんていない』ってよ」了は西村を見つめたまま言う。 「言った、けど。あたしが言ったとき、笑ってたじゃない」 「ちげえんだよ。馬鹿にして笑ったんじゃねえ。あの言葉。昔、西村さんにも言われたことがあんだよ」 「え」 「俺が、この世界に入りたてのころにさ。他の組のもんに、いちゃもんつけられたんだわ。何も分かんなかったからよ。喧嘩しちまったら、まぁ、そいつが実は別の組の若頭だったんだわ。分かるか、若頭って」 「知らないわよ、ヤクザの世界のことなんて」 「ま、会社でいう副社長みてえなもんさ。それで、エンコ詰めろ、って、それも分かんねえか。エンコ、つまり小指を切れっていうんだ、責任取るためによ」了は自分の小指を立てて、説明した 「何それ、意味分かんない」 「まぁ、そう思うわな。でも、それがこの世界のルールだから従うしかねえ。でも、そんときゃ、俺もそんな理不尽なルールなんて理解できなかったからよ。中途半端なことするぐらいなら、殺してくれ、って喚いたんだわ」了は両手を広げ、喚く素振りをしてみせた。 「で、どうなったの」 「そしたらよ。ほかのもん押し退けて、西村さんがやってきてよ。助けてくれるかと思ったら、逆に、それこそ本当に殺されるじゃねえかってぐらい、西村さんにボコボコにされたんだ。そんで胸座掴まれて、『そんな簡単に死ぬだのいうんじゃねぇ。死ぬためにこの世界入ったんなら、今すぐ辞めろ。死んでもいい人間なんていねぇんだ』って言われてよ」 「そっか」  了は立ち上がると、早希を見つめ、「西村さんと同じこと、まさか、こんなガキに言われるとは思ってなかったから。思わず、な」と苦笑した。 「ガキって。あんただって、そんなに歳、変わらないでしょ」 「歳が近かろうが、働いてねえ奴は皆ガキなんだよ。とにかくだ。おめえが俺に言ったんだぜ、その台詞を。今、しようとしてることは、なんだよ」  早希は返す言葉がなく、口を噤む。 「ここまで来たのも何かの縁だ。一緒に逃げるなんて、当たり前だろ。そんでよ、生き残ってやろうぜ」 「うん」
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