第一章4  『痣』

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第一章4  『痣』

 早希と大は、木の葉を手で下げ、隙間からスーツ姿の男たちを覗いている。 「黒い車にスーツ。間違いない、高速で煽ってきた奴らだ。でも、こんな山奥でいったい何を」 「真夏日にあんな恰好で穴を掘るって、明らかに変だよね」  大はじっとスーツの男たちを見つめていると、何かに気付き、目を見開いた。 「やばいかもしれない。あいつらが何かを埋めている場所、よく見てみろよ」大が指を差した。  穴からは、まだ埋まりきっていない鈴木の手がはみ出ている。 「嘘。もしかして、人の、手? ちょっと待って。まさかだけど、あの人たち、人を埋めてる? 誰かを殺した、ってこと?」早希は驚きを隠せない。 「あの様子。きっと、死体を埋めにこの山へやってきたんだ。ヤクザか、犯罪者かは、分からないけど」 「え! じゃ、早く警察に――」  大は興奮気味に声を上げた早希の口を、急いで手で塞ぐと、草陰に身を隠した。  西村は作業を止め、穴から見上げるように、森に目をやる。 「西村さん、どうしたんすか」了も手を止め、シャベルを地面に突き刺す。西村はしばし森を見つめると、「声が……いや、気のせいだ」と了に伝え、作業に戻った。  木の向こう側では、大が眉をひそめることで、早希を責めていた。早希は片目を瞑り、ごめん、とばかりに両手を合わせる。 「関わっては、まずい奴らだ。気付かれる前に行こう」大が早希に囁く。 「だけど」  殺人の現場を見て、何もせずに立ち去るの? 早希は自身の内に秘める正義感から、人を埋めるという非人道的行為を見過ごしたくはなかったが、さすがに無謀な状況だと判断し、やむを得ず、うなずいた。二人は音を立てないようにと、腰を落としたままの状態で、来た道を戻り始める。大は、人は慎重になればなるほど、周りが見えなくなることを体現する。落ちていた枯れ木に足を取られ、後ろに倒れてしまった。その拍子に地面からむき出しになっている尖った石に手をつくと、痛さを堪えきれず、声を上げてしまう。  声に気付いたヤクザたちは、揃って森に視線を集めた。 「誰だ!」と佐々木が声を荒げた。  森は静まり返っている。  ここで見つかったら、きっとただでは済まない。最悪、殺される。木の陰では、血が流れている手を口に当て、大が声を押し殺していた。額からは脂汗がどっと出てくる。隣の早希は、どうしてよいかも分からず、困った顔で、大とヤクザたちのほうを交互に見ている。 「了、ちょっと見て来い」佐々木は了に命令した。 「え」 「えっ、じゃねぇんだよ。毎回、毎回、訊き返すな。早く行けよ」 「は、はぁ」  了は足取り重く、森のほうへと歩き出す。了のだらけた動きに佐々木は苛立ちを募らせ、吸っていたたばこを捨てると、別のたばこを取り出して火をつけた。  大は来た道を指差して、早希に進行方向を促す。二人は見つからないようにと、今度は這うような体勢で足音を忍ばせながら動き出した。森の入り口へと来た了は、あっさりと、逃げていく早希と大を発見して振り返り、大声で報告をする。 「人ですよ、二人いる。何か見られてたっぽいっすね」  佐々木は点けたばかりのたばこを荒々しく投げ捨て、「っぽいですね、じゃねぇよ。早く追いかけて、捕まえろよ!」と甲高く叫んだ。 「え、あ、はいっ」了は慌てて二人を追いかける。 「くそ、気付かれた。早希、走るぞ」大の言葉をきっかけに二人は走り出した。  状況を傍観し、動こうともしない西村を見て、佐々木が腹の底からため息を吐く。 「西村さんもさ、ぼけっと突っ立ってないでさ」 「放っておいても、問題はない」西村は憮然とした態度を示す。 「殺した人間、埋める現場を見られといて、問題ないわけねえだろ」 「こんな場所から通報したところで、誰もすぐには来れない。心配するな」 「顔は見られたじゃねえかよ。それはどうすんだ」 「ここから森のところまでは十メートルほどはある。大して認識はできないはずだ」  西村の言い分に納得はできたが、妙に腹立たしい。加えて、了だけに任せるのも心配になってきた佐々木は、嫌々追うことを決める。 「いいから、俺らも行くぞ」と佐々木が走り出す。西村もサングラスを掛け直し、やれやれ、と足を動かし始めた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  ログハウスに戻ったみさえは、先ほど起きたことがまだ実感できずに、リビングのソファに座り、両手で顔を押さえ、ぐったりとしている。 「何で、こんなこと起きたの。やっぱ、警察に連絡しなきゃ。だよね?」と和真を見た。  玄関口から、和真は老人の返り血を濡れたタオルで拭き取りながらやってくると、「だから、電波入らないって言ってるだろ。確かに何かしないと、とは思うけど。今はどうしようもない」と言う。   現実逃避をするみさえにある考えが浮かんだ。 「ねぇ、あれ、ほんとだったのかな。お爺さんの冗談か、なにかだったりとかしないかな」みさえが顔を上げ、和真に訊ねた。 「な、わけないだろ。見ろよ、これ」和真が血の付いたタオルを差し出した。 「やだっ、そんなの見せないでよ」 「だってよ、みさえが冗談だって言うからさ」 「違うのぐらい分かってるよ、言ってみただけじゃん!」 「悪かったよ、だから落ち着け、な?」  みさえは不満とも、悲しみとも捉えられる吐息を吐いた。 「先輩、これ、ほんとにどうするの」 「分かんねえよ、俺にだって。そもそも、人が死んでるとこなんて、ばあさんの葬式でしか見たことないしな。ましてや、目の前で自殺とか、ありえないだろ」和真はタオルを床に投げつけると、ソファに倒れこむように腰を落とした。  二人とも突きつけられた現状に打開策は見いだせなく、喋ることすらできなくなっていく。重い空気に耐えられなくなったみさえは涙を浮かべる。 「もう、やだ。早くおうち帰りたい」  耐えられないのは和真も同様だった。泣きたいのはこっちだ、本来であればこの旅行でみさえを口説く予定だったのに、なぜこんなことに……、と心の中で小言を言う。   和真は無理やり話題を切り替えることにした。 「そう言うなって。確かに、こんな事態になるとは想定してなかったけれど、ほら、あれだ、ここ、夜とか星が綺麗だぜ」 「もう、星とか、どうでもいい。皆が戻ってきたら、とにかくここから出よ」 「帰る? 帰るのは朝でもいいだろ」帰りの運転は和真がする予定だったため、思わず和真は本音を漏らした。 「やだ」 「いや、マジで綺麗なんだって。見なきゃ、絶対に後悔する。それだけでも、見て帰ろうぜ」と言いながら和真は立ち上がり、奥にあるキッチンへと向う。 「そんなに?」 「ほんとさ。何度も来て見てるから間違いない。東京で星なんか、ほとんど見えないだろ」 「そうだけどさ。楽しめる気分になんかなれないよ」  キッチンに着いた和真は、こうなれば、半ばやけだと、冷蔵庫から缶ビールを取り出して即座に半分ほど飲み干すと、声を押し殺しながら身悶えた。喉の渇きも相まってビールの美味さは感じたものの、酔える気配はしない。でも、こんな時は酒に頼るしかないだろ、みさえも飲んでさえしまえば……。和真は、もう一本ビールを手に取り、ソファへと戻っていく。 「皆が戻って来てから相談しよう。それまで飲みながら、待とうぜ」とソファの後ろから、ほら、と冷えた缶をみさえの頬にあて、差し出した。  飲んでいる状況ではなかったのだが、飲まないとやっていられない気分、走ったことからの喉の渇き、元々お酒が好き、と今のみさえには断る要素が見当たらなかった。「うん。でも、絶対に今日帰るからね」と言い、みさえがビールを受け取ると、手渡す和真の左腕にあるものに気付く。腕には目立つ痣ができていた。 「先輩、その痣。どうしたの?」 「あざ?」  和真がソファに座りつつ、腕を確認すると、みさえが言う通り、左腕にはくすんだ痣のようなものができている。 「お、なんだこれ。川でぶつけたかな」 「痛くないの?」 「全然」  気にも留めずビールを飲み続ける和真の痣を、みさえはじっと見つめる。痣は先ほどよりも色濃くなり、見覚えのある形になっていく。 「なんかさ、その痣。手の形、に見えない?」 「手の形?」  考え込むように和真は痣を見つめていると、「あ!」と声を上げた。 「ちょっ」みさえが声に驚き、ビールをこぼしそうになる。 「もう、急になんなの」 「わりぃ、わりぃ。いや、どこかにぶつけたかと思い出してたらさ。あのじじいに、ほら、腕を触らせてたなって」  みさえは、ため息交じりに冷ややかな目を向けた。 「触らせてたね。ほんと最悪。先輩があんなことさえしなきゃさ」 「怒るなって。もちろん反省はしてるさ。でも、じじいも悪いだろ。触らせるな、とか意味分かんねえし。俺だって、あんな態度されなかったらよ。けど、こんな痣になるぐらい、強く掴まれた記憶はないんだがな」と和真が首を捻った。 「そう言えばさ、おじいさん、あのときに変なこと言ってたよね」 「変なこと?」 「うん。なんだっけ……。あっ、ほら、呪いが、そう、呪いがどうとかって」 「あ、そんなこと言ってたか?」  老人の言葉はインパクトがあり、もちろん和真は一言一句鮮明に覚えていた。 「言ってたじゃん、呪いがって。もしかしてさ、その痣って……」  呪いなど信じないし、信じたくもない。そんな非科学的なことがあってたまるか。老人が自殺した場面や不吉な言葉を払拭するかのように、「そうだ。俺、呪われたんだった。みさえ、どうしよ。助けてくれよ」と和真はわざとおちゃらけてみせ、みさえの肩に手を回して抱きつこうとする。  みさえは男をひきつける体つきや甘ったるい口調から、軽い女と思われがちだった。その分、勘違いする男たちへの対処にも手慣れたものだ。和真の手をさっと避けて立ち上がり、ビールをぐいっと飲み干すと、和真に嘘くさい笑顔を向ける。 「もう一本飲もうっと。先輩もいる?」 「いいよ、なくなったら自分で取りに行くから」和真はふてくされた顔で、手を振った。  和真なりの気遣いでもあったのだろうが、どさくさに紛れて口説こうとしてきた和真に呆れた顔をして、みさえはキッチンへ歩く。キッチン部分はリビングから奥まったところにあり、扉は無いものの、リビングの様子はそこからは見えない造りになっていた。みさえは冷蔵庫を開き覗き込むと、飲み物とつまみを探っていく。  その時、予兆もなく、異変は起きた。獣が吠えるような音が辺りに鳴り響く。獣の声は猛獣の咆哮に似た不気味な音だった。えっ、なんの音? と音に反応する前に、立て続けに和真の悲鳴が聞こえてきた。冷蔵庫に頭を突っ込んでいたみさえは、驚いた拍子に勢いよく頭を上げると、冷蔵庫に頭を激しくぶつけた。 「いったぁ。なに、先輩、大丈夫?」みさえは頭を押さえながら和真に声をかけたが応答はない。  心配になり、リビングへ戻ろうとするみさえ。しかし、老人の家で和真に驚かされたことが頭を過ると、踏みとどまった。またふざけてるな、引っ掛かってやるもんか、もう怖い冗談はうんざり、とみさえは和真を気に掛けることを止め、視線を冷蔵庫へ戻した。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  晴斗と共子は、西日がかかった森の中を早希と大を探して歩いている。太陽の光に照らされ緑がかった爽やかな風景はすっかり影を潜め、葉で遮られた木の下は薄暗く、何か潜んでいるのでは、と不安を煽るほどだ。 「おーい、大。早希ちゃん。いたら返事くれよ」晴斗が声を張ってみるが、返答はない。「いないなぁ……。やっぱりさ、大も早希ちゃんも、もう戻ってんじゃないかな」晴斗は共子に訊ねた。 「かもね」共子が素っ気なく答える。 「かもねって。探しに行くって言い出したの、共子ちゃんだよね。その言い方さ、なんか冷たくない?」 「そんなことない」  え、なにこの素っ気ない感じ? 怒っているようにも、見えるしな。どう接するのが正解なんだ、前からこうなんだよな。なにしたんだよ、俺……。晴斗は共子の態度に頭を抱えた。 「えっと、冷たいっていうか。ずっと気になってたし、いい機会だから訊いちゃうけどさ。共子ちゃんて、いつもどこか引いてない? 特に俺に対してさ」  共子が晴斗を気になり始めたきっかけは、好きなアニメの主人公に似ているという単純なものだった。あることがきっかけで、二次元にしか恋をしないと誓っていた共子は、晴斗と出会った瞬間にルールが書き換えられてしまった。意識すればするほど、気持ちを隠そうとして態度が冷たくなってしまう。現在の心境もそうだった。高校時代からの友達である早希を心配して、探しに行きたいと言ったことは本心ではあった。けれども、晴斗も一緒に来ることになってしまったのは誤算だった。嬉しくもあり、戸惑いもある。結局、晴斗にどう接してよいのか分からず、二の足を踏んでいる。  無口で機嫌が悪そうな共子の様子を見かねた晴斗は、歩きながら、共子の顔を覗き込む。 「いや、ほんと何か気分悪くなること、前に言ってたりしたらさ、謝るよ。ごめん」晴斗は両手を合わせてみせた。  そんなことない、と晴斗の問いを否定する代わりに、「晴斗はさ。みさえみたいな女の子っぽい人が、好きなの?」と共子は何気なく晴斗の気持ちを訊いてしまった。 「えっ、なに、なに、突然」予期せぬ質問をされ、晴斗は戸惑いを隠せない。  戸惑ったのは共子自身もだった。今、何を言ったの、私? でも、訊かなかったら、この先ずっと晴斗への態度、変えられないよね……。意図せずではあったが、訊いてしまったものは、どうしようもないと、「どうなの」と共子は晴斗を問い詰める。  晴斗は腕を組み、空を見上げ、考えたふりをしながら答える。 「……いや、まぁ。正直、みさえみたいなのっていうか。みさえがタイプっていうか」 「そっか……」共子がしんみりと言うと、晴斗はすかさず共子を笑顔で見つめた。 「いや。でも俺、共子ちゃんみたいなタイプも好きだよ。いや、ほんとに。可愛いし、おしとやかだし」  あまりにも考えなしの八方美人な晴斗の対応に、なぜこんな男を好きになったのかと、自問自答するのすら馬鹿らしく思えた共子は、「はいはい」と気のない返事を返す。その一方で晴斗の気持ちを知ってしまい、失恋したことを実感すると、涙が溢れそうになった。  次の瞬間、森の中からガサガサと草木が揺れる音が聞こえ、共子の泣きたかった気持ちも、緊張へと切り替わる。何事かと、身構える共子と晴斗の前に、大きな二つの影が飛び出してきた。晴斗は高い声を出して、跳ねるように共子に抱きついた。元々、晴斗に肉体的な男らしさは、その華奢な体系から期待してはいなかったけれど、もう少し頼れる男らしさは見せて欲しかった。と共子は晴斗の行動で、むしろ冷静さを取り戻した。ずれた眼鏡を掛け直すと、息を切らした大と早希の姿に焦点が合っていく。 「晴斗! 共子!」二人の顔を見た大の眉が晴れる。 「どうしたの、そんなに慌てて。それにその手」共子が手から血を流す大を心配した。手の怪我など気にも止めず、大は焦った様子で、森のほうを気にしつつ、説明にならない説明を始める。 「い、いいから。ヤクザが、森の中で、死体が、だから」 「大、落ち着いて話して。いったい何があったの?」共子が訊き返す。 「ごめん、共子。今は説明している時間がないの、とにかく逃げないと!」大抵のことであれば平常心を保ち、対処できる早希も、動揺を隠せずに手ぶり身振りを交えて言った。 「ひとまず、ログハウスへ戻ろう」それがいい、と大の提案に早希は何度もうなずく。 「なんなんだよ」まごついている晴斗の背中を早希が手で押して、むりやり進ませる。 「いいから、走って!」  早希に追い立てられるように、晴斗と共子は進みだした。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  みさえは、つまみのお菓子とビールを抱え、鼻歌交じりでリビングへと戻っていく。ソファには和真の姿は見えず、部屋は静まり返っている。先ほど聞こえた奇声から始まった冗談がまだ続いているのか、と辟易した顔でソファに向かう。 「もう、先輩。ほんと、やめてよね」部屋の角にでも隠れているであろう和真を探すように首を左右に振る。おかしいな、冗談をするにしても、いつもはもっと軽く済ませるのに……。みさえがソファの角へ辿り着くと、ずるっと、なぜか濡れている床に足を取られて転倒した。抱えていた菓子や缶が床に散乱する。 「いったぁーい。もう、マジ最悪なんだけど。先輩、ビールこぼしたでしょ!」  みさえは体を起こす際に床の液体に触れると、違和感を覚えた。それは明らかにビールなどではなく、生暖かかく、どろっとした感触だった。みさえは手を顔に近づけ、見つめる。手についた液体は思いもよらない真っ赤な色をしていた。どこかで見た事がある赤色の液体。トマトジュースにしては赤すぎる。ペンキ? でも誰が持ち込んだの? それに、この赤い液体に見覚えはある。あれはいつだったっけ……。 「え、なに、これ?」  床に広がる赤い液体を追い視線を動かしていく。液体はその先に倒れていた和真から流れていた。ぐったりとした和真の頭部は半分に斬られ、そこから脳髄と血が溢れ出ている。つい先ほどまで普通に会話をしていた人間が、凄惨な姿で死んでいるのを見て呆然とし、動くことも、考えることもできない。  みさえは雪解けするように思考を取り戻していくと、漸く手に付いた液体が血であることを理解した。あれは、中学生の時だった。家庭科の調理実習で手を深く切ったとき、流れた血を思い出す。血、これは血、なんだ……。理解するとともに恐怖が訪れ、みさえは目を見開き、絞り出すように悲鳴を上げた。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  キャンプ場の入り口に差しかかった大学生たちは、みさえの叫びを聞き、首を素早くログハウスのほうへ向ける。 「みさえ?」と早希が口にする前に、血相を変えた晴斗が一人、駆け出していく。三人も後を追い、ログハウスへと急いだ。 「みさえ!」晴斗は蹴り破るように扉を開けると、目に入ってくる光景に絶句した。床には頭から大量の血を流した和真が倒れていて、近くでは放心状態のみさえがへたり込んでいる。ちょっと待ってくれよ、なんなんだよ、これ。わけが分かんねぇよ、血、本物なのか? いや、和真さんの冗談だよな。そうだ、いつもの冗談に決まっている。晴斗の頭は事態の把握に追いつかない。  晴斗よりも混乱しているみさえは、晴斗の声にすぐに気付かない。しばらくして、思い立ったように振り返ると、すがるような目で晴斗を見つめた。 「晴斗……」  あっけに取られていた晴斗も声で我に返り、駆け寄る。みさえは晴斗に抱きつくと、やっと恐怖から解放されたのか、子供のように泣きじゃくった。  遅れて入ってきた早希たちも、凄惨な状況を目の当たりにして青褪めていく。 「……嘘、だよね。あれ、和真先輩、なの? 何が起きたの?」早希が大に意見を求めるが、大は口を開けたまま、声を発することができない。 「みさえ、大丈夫か? この血はなんなんだよ、どこか怪我してんのか?」晴斗がみさえの身体を隈なく確認する。 「怪我なんかしてない。ただ、先輩が、戻ったら、ち、血が床にあって。顔が半分なくて、いや! 分かんない、何で! 何でよ!」状況の整理ができないみさえは声を荒げた。  早希が二人に近寄り、「みさえ、落ち着いて。まずは深呼吸。気持ちが落ち着いてからでいいから、何があったのか、私たちに教えて」とみさえを宥めた。  あれだけ元気だった和真が死んでいる。非業の死を受け入れる心の準備ができていなかったからか、共子は悲しい気持ちにはなれなかった。不謹慎だとは自覚しつつ、それ以上に晴斗のみさえへの気持ちをまざまざと見せつけられたことのほうが悲しく、悔しくなってしまった共子は、自身でも気付かないうちに唇を噛み締めていた。図らずも一人冷静に状況を見ていた共子だけが、みさえの異変に気が付くと、表情が曇っていく。なんで、あの人が言っていたあれがみさえに……、あの話が事実だったということになってしまう……。  震える指でみさえの肩を差し、「痣……」と消え入りそうな声で言った。共子の発言に皆の視線が、みさえに集まる。みさえの肩には手の形をした黒色の痣が、くっきりと浮かび上がっていた。
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