都橋探偵事情『舎利』

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都橋探偵事情『舎利』

 女がネッカチーフを弛めた。聖夜まで三日、風もなく穏やかな気候に汗ばんだに違いない。信号待ちしている間にとうとうネッカチーフを外してバッグに入れた。大きなサングラスは目眩ましにはならない、逆に目立ち尾行するにはおあつらい向きのアイテムである。鶴屋町の信号を右に曲がった。横浜駅まで歩くのだろう。一昨年オープンした三越の前で立ち止まる。日陰に北風が吹いた。またバッグからネッカチーフを取り出してさっと首に巻いた。エレベーターを待っている。エレベーターガールが会釈すると『三階』口の動きを読み取った。探偵は階段を駆け上がる。ブランド店が並ぶフロアの化粧室に入った。 「いらっしゃいませ」  Aから始まるブランド店の男が声を掛けた。探偵のコートは伊勢佐木町の松坂屋で購入した日本製である。メーカーは気にしないたちだが安い品ではない。ソフト帽は伊勢佐木町の帽子屋である。メーカーは分からない。靴は都橋商店街の安物だった。事務所の真下の靴屋で主人に安くて歩きやすいと太鼓判を押されて購入した。確かにその通りだった。尾行が長くなる時はこの靴を愛用している。ただ見た目が安っぽい。ブランド店の男が靴を見てすぐソフトに目を切り替えた。 「素敵なお帽子ですね」  靴を見られたのが恥ずかしい。 「ありがとう」 「コートもお似合いですね」  商売とは言えよくもぬけぬけと世辞が言えるものだと感心した。 「どうぞ、ご覧ください」  女はまだ化粧室から出てこない。探偵は仕方なく店に入る。 「こちらのコートなどお客様にぴったりですよ」  男がハンガーからコートを外した。探偵のコートにはステッキが入っている。脱ぐことはできない。値札は25万とある。昭和50年サラリーマンの平均月収と同額である。
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