わたしには、夏が来ない。

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 わたしには、夏が来ない。  桜の花びらが舞い散る中、わたしは大学の門の前に突っ立っていた。周りにはスーツを着た男子や袴を来た女子、それに合わせて着飾った父親母親たちがたむろしている。そんな華やかな人々の中で、わたしはくたびれたシャツとジーンズに身を包んで、突っ立っていた。  何組もの親子が、門の前に掲げられている「祝入学」の看板の前で写真を撮る。彼らは笑顔も華やかで、それを見ているとなんだか吐き気がした。  あんなに勉強してやっと受かった第一志望の大学。その入学式にわたしは来ている。けれど何もめでたくなかった。何も楽しくなかった。何も嬉しくなかった。  ポケットから取り出した携帯電話で、母から届いたメールを開く。たった一文、「ごめんなさい」と書かれている。  その一言が、わたしの胸にまた突き刺さる。  謝られたって困る。母は何も悪くないのに。そうやって謝られたら、許したくもない人間を許さなくちゃいけなくなる。だから、謝られたって困る。  わたしは携帯電話をポケットにしまって、門の前から続く坂道をゆっくりと降りていく。喧噪がやがて遠ざかり、わたしの鼓動もいつも通りに戻っていく。  あんなに欲しかったものが、今はもうただのガラクタだ。  しばらく歩いてバスに乗り、病院へ向かった。受付で名前を言って、自分の病室に行く。  病室の隅の真っ白なベッドに倒れ込む。  少しうとうとしていたら、看護師がドアをノックして入ってきた。 「帰ってらっしゃったんですね。具合は大丈夫ですか?」 「はい……」  看護師の無機質な声に、それ以上に無機質な声で返事をした。 「お友達が来てますよ、部屋に呼びますか?」 「お願いします……」  ほどなくして、看護師に連れられて病室にやって来たのは、今日もナツキだった。 「やっほー、入学式どうだったよ?」  ナツキは溌剌とした声を発しながら、わたしに近付いてくる。それを見届けて、看護師が廊下へ消えた。 「桜、咲いてた……」 「そりゃあ桜だって咲くよ! 春だよ、春! これから楽しいキャンパスライフが始まっちゃうんだねぇ、羨ましいぜ!」  何が。  何が、羨ましいの? 「私ねー、結局、浪人することにしたのだよ! まーた一年間、お勉強三昧なのだよー」  ナツキがわたしを励まそうとしているのは分かる。彼女に悪意なんてないのは分かる。分かっていてもわたしは、怒鳴り散らしたくなって、でもそれをなんとか我慢する。  そもそも彼女は知らないのだ。わたしの余命が二ヶ月であることなんて。 「なんで……」  ふと、涙が流れるのを止められなかった。まるで両目が激しく嘔吐でもするように、涙が溢れては落ちていく。 「どうしたの……?」  ナツキの素っ頓狂な声が、わたしの耳に突き刺さる。 「なんで、なんでなの? わたしまだ十八歳だよ? せっかく大学も第一志望に受かったのに、なのに……」  なんであと二ヶ月しか生きられないの?  そう言おうとして、とどまった。こんなことを伝えても、ナツキは困るだけだろう。  彼女はぽかんと呆けた顔で、わたしを見ていた。  けれどその表情は、段々と笑顔に変わっていった。 「よかったじゃん、病気。余命二ヶ月だっけ? 十八歳の少女、不治の病、余命二ヶ月……、もうがんがん悲劇のヒロインじゃん! 昔からあんたそういうの好きよねー。どうせ今回も死なないんでしょ」  ナツキが突然まくしたてて、わたしは言葉を失った。  何を、言っているの……? 「前はなんだっけ、もう忘れたけど、さすがに架空の病名まで持ち出してくるとは思わなかったわー。しかもそれまでに十回以上も入院しては余命何ヶ月とか言っていつの間にか退院っての繰り返しといてさ、全部記憶にありませんとか言っちゃってさー。記憶喪失ってのも、どうせ嘘なんじゃないの?」  架空の病名?  十回以上の入退院?  記憶喪失? 「な、なんの話してるの……?」 「ほーらまたとぼけちゃって。お得意の記憶喪失ですかー? もうあんたの相手するの疲れたし、いっそ本当に死になさいよ」 「いや、だから……、わたしは余命二ヶ月で……」 「はいはい、もう聞き飽きたっての。詐病のプロでも目指してんの?」  駄目だ、ナツキが何を言っているのか全然わからない。  また溢れてくる涙を止められないわたしを見て、ナツキは急に顔を険しくする。そして、ナツキは病室のベッドの足を強く蹴ってから、部屋を出ていった。  わたしはやがて泣くのに疲れて、ベッドに身を横たえた。  ナツキの言っていたことが、まったくわからない。わからない、わからない、わからない……。  わからない、ことにした。  二ヶ月経ったら、わたしは、死ぬ。わたしが死んで、新しいわたしと入れ替わる。ただそれだけのこと。  だから……。わたしには、夏が来ない。
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