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「え、甥がいる?」
聞き返す俺に声もなく頷いた父の表情は疲労が滲み、目の下にくっきりと浮かんだ隈が一層老け込んだ印象を与えている。
家出同然で家を飛び出していた兄の訃報は、平穏そのものだった我が家の空気を一変させた。
不幸な事故だったと聞いている。見通しの悪い交差点で昼間から泥酔した歩行者が道路に飛び出し大型自動車に撥ねられて即死。誰にとっての不幸だったのか、口にするのは憚られた。遠い昔に家を出た彼がどんな暮らしぶりだったのか知らないが、兄はいわゆるヒモと呼ばれる生活を送っていたらしい。
そんな人でも籍は抜いていないし、家族であることに変わりはない。だから通夜も葬儀も父が喪主となり執り行われた。子供の葬儀を行うなんていう憂き目に遭った両親と違い、俺は他人事と割り切っていいのか、何の思い出もない他人のような身内の死を悲しめばいいのか決められないまま、ただぼんやりと通夜が開かれ、葬儀が行われ、全てが終わるのを眺めるしかなかった。
「あの、参列してくれた方……ですよね?」
「…………」
視線を移した先にいる男は無言のまま頷き、気まずげな表情で食卓に視線を落としている。対面に父と並んで座るその男は、通夜の参列者の中に見覚えがあった。
歳の近い親戚ならば一度くらい顔を合わせたことがあるだろうに、初めて見る顔だ。だが、きっと故人とは歳の離れた友人だろうと結論づけて深く考えずにいた。あのときは考えるのも疲れてしまっていたから。
「甥って、本当に? その人が? 俺より歳上に見えるのに」
「……二十歳だそうだ」
寡黙な客人の代わりに答えたのは父だった。
そう見えるのではなく本当に歳上とは。それも二つ。歳も近く、顔も似ている部分が多い。並べば俺と兄よりも兄弟に見えそうだ。俺は兄がこの家の後継に相応しくないと判断されるや否やどうにか妊娠に出産まで漕ぎ着けてできた子供だから、兄とは17も歳が離れている。
きっとそのせいもあるだろう。俺にとって兄は今まで一度も会ったことのない存在で、誰よりも濃い血縁者であるもののほとんど他人と呼んでも差し支えない人なのは。
「それって兄さんがいくつの時にできた子供だよ?」
棺に入った兄弟の死に顔を見る勇気はなかったが、代わりに死亡証明書を見た。享年35歳。なんて親不孝なのだと、小さくなった母の背中をさすりながら思ったのを覚えている。
背中を丸めてしまった甥という男の隣で、父が気まずさを振り払うように咳払いをした。
「お前には黙っていたことだが、あいつは自分から家を出たんじゃない。学生の身分で……子供が子供を作ったことで追い出されたんだ」
「父さんに?」
「お祖父様にだ」
お祖父様。その言葉を聞いたとき、諦めと納得で思わず顔を手で覆った。肺を満たしていた重たい空気を吐き出す。
我が家は一言で表すなら富裕層。アッパークラスと呼ばれる階層に位置する。同族経営はわかりやすい縦社会が築かれていて、その頂点に立つのは一族の当主であり経営のトップでもあるお祖父様だ。頑固なところが目立つが立場の割に偏屈や理不尽な物言いをしない人だから、良い祖父だと思う。
俺にとっては。
「それは……いかにもお祖父様が嫌いそうな話だよね」
お祖父様の好きな言葉は道徳や倫理、責任感といった類のもので、きっと俺の予想通りなら甥のことを嫌っているに違いない。まるで自分の人生の汚点のように感じているはずだ。そういう人だから。
お祖父様は孫である俺には甘い顔をする反面、婿養子である父のことは蛇蝎の如く嫌っている。どうしてそんなにも嫌っているのかわからなかったが、ようやく合点がいった。兄のことが許せず、その保護者であり責任を取る立場である父を嫌ったのだ。
俺は今まで一度も兄に会ったことがなく、初めて両親の口から聞いた兄の話は彼の訃報だった。
この家で兄の存在は口にすることすら許されない腫れ物なのだ。彼はその子供。そうなってしまった原因を作ったのは兄で、彼はその理由になる。
「それで、俺づてにお祖父様に取り入ろうってこと?」
やっと理解ができた。父が彼をここに連れてきた目的。親を亡くした身内への同情や愛情ではなかった。
「叶冬、そんな言い方……!」
「ならどうして? その人が京念屋家の一人だと認められないことに何の問題がある? 大変だろうけど、二十歳なら保護者がいなくても何とかなる年齢だろ? お祖父様にひ孫の人生にまで責任を負えって言うの?」
「そうじゃない、私はこの子を、」
「隠さなくていいよ。父さんが散々してきたことだろ」
どういうわけかお祖父様は一族の中でも俺を一番可愛がっているらしい。俺が後継者になるために作られた立場だからか、それとも歳を重ねて孫が可愛く見えてきたのか。理由は何だって構わないが、とにかくそんな俺のことをお祖父様は一番目にかけてくれているらしいのだ。そして、父が俺を口実にお祖父様へ何かを持ち掛けるのはこれが初めてのことではなかった。
「歳上だけど、甥っ子なら敬語を使う気はないよ。俺は京念屋叶冬。君は?」
顔を向けて問い掛けると、甥と紹介された男は躊躇いがちに顔を上げた。真っ直ぐと見つめ返す瞳は茶色いのに緑がかった不思議な色をしている。だが、その特徴的な瞳以外は初めて会った気がしないほど見覚えがあった。俺そっくりだ。生まれた順で言えば、俺が彼に似てると言うのが正しいけれど。
「安宅凛月です」
歳下の俺相手に敬語を使わなくていいとはわざと言わなかった。それを汲み取ったように吐き出された声色は固く、距離を感じる。
京念屋姓を名乗らないということは、兄は彼の母と籍を入れなかったのだろう。戸籍上は他人。この人は思った以上に微妙な立場にいるらしい。
「今までどうやって生活してた?」
「生活費は頂いていました。学費は奨学金とバイトでどうにか」
「大学生?」
「短大です」
「大変なんだね。奨学金は早めに返したほうがいい。きっと父さんが面倒見てくれるよ、孫なんだから」
隣で父が言葉に詰まったようだが、素知らぬふりをして会話を続ける。
「生活費はどこから?」
「毎月一定の額が京念屋家のご当主の名前で振り込まれていました」
多いとも少ないとも言わなかったが、余剰があればそれを学費に回せただろう。凛月くんは必要以上の答えを口にしないらしく、これまでの生活に対して憤りを見せることも恨み言を言うこともなかった。
しかし、学費は奨学金とバイトで賄うほど苦労していたのに兄の死因は昼間から泥酔した結果の交通事故だ。まさかと思い、可能性の一つとして問い掛ける。
「凛月くんはしっかりしてるように見えるけど、口座のお金を管理していたのは兄と君のどちらかな?」
「父です」
「どうやって管理していたか説明できる?」
「振り込まれた翌日にあるだけのお金を引き出すので、使い切るより先に一月分の生活費を確保していました」
「一月分の生活費って把握できるものなの?」
「どんぶり勘定ですが、少しの不足なら運が良ければ父に頭を下げてどうにかなることもありました」
どうにかならなかった経験がなければこんな言い回しはしないだろう。きっと父はここまで深く尋ねなかったに違いない。隣で絶句した表情がよく見える。
彼は想像以上に苦労を強いられた身の上らしい。どうしたものかと思案していると、凛月くんが焦りを感じさせる表情で弁解を始めた。
「あの、決して頂いていたお金が少なかったわけではないです。むしろ賢く使っていればバイトか奨学金を減らせた額です。感謝しています」
「君の感謝は関係ないよ」
それに、そんな言葉を言わせたかったわけでもない。
切り捨てた物言いをすれば目に見えて凛月くんは狼狽した。たったこれだけでの会話でわかったことがある。こんなにも純粋でわかりやすい人が京念屋の人間として生きるには苦労すると言うことだ。
「中途半端に面倒を見るくらいなら最初から手を出すべきではなかった」
凛月くんから目を背けないまま、これは父に向けて放った言葉だ。俺の意図を正しく汲み取った父は苦虫を噛み潰したような表情をしている。
俺は父を尊敬しているし敬意を払っているけれど、正確な序列でいうならば婿養子の父よりも実子の、それも跡継ぎとして認められている俺の立場が上にある。凛月くんの前でなければこうも高圧的な言い方をするつもりはなかった。
「兄が死んだことで君と京念屋との縁は切れた」
彼は血を分けた甥である。それを疑う必要がないほどによく似ている。しかしそれを証明するものは残されていない。他人のような身内が残した、法的な繋がりのない他人だ。
「生活費の援助はこれでお仕舞いだ。元々振り込まれていたお金は君の生活費ではなく兄の生活費だったのだから。すぐに働ける職場がほしいなら俺からもお祖父様に頼んでみよう。これからの暮らしも、あまりに酷いようなら見過ごしはしないだろう」
「話は終わり」そう言って腰を上げると、何かを叩きつける音が居間に響いた。父が手のひらを食卓に打ち付けた音だった。
「彼は私の孫だ。お祖父様には彼を後継者に推薦するつもりでいる」
「その口添えを俺にしろってことならお断りだよ」
「叶冬、何もお前に悪い話ではないだろう。彼だって承知の上でここに来た」
「何を承知して? 何も知らせず連れてきたんだろう。衣食住の保障、それ以上を交渉できる人だと思えない」
「それで十分だと言ったのは彼だ」
「それ以外の選択肢がないことと最初から選べないことは同じではないのに?」
「いい加減にしろッ!」
一際大きな声が居間に響く。俺が返事をしないから会話は途切れ、場に沈黙が落ちた。
不運にもこの場に居合わせてしまった歳上の甥を見遣る。俺と父の言い争う声を黙って聞いていた彼はひたすらに存在を隠すかのように縮こまり、長い手脚を胴体に寄せて震えていた。
「……少し二人で話そうか」
甥に外すよう促せば、彼は青白い頬のまま慌てて立ち上がる。
「凛月くん、2階の奥が俺の部屋なんだ。そこで待っていてくれる?」
呼び止める声は予想外だったようで、曖昧に頷いてみせた。
猫背でわかりづらいが、結構背が高そうだ。俺の2年後はあそこまで伸びないだろう。そんなことを考えながら背中を見送る。扉が閉まると同時に父は口を開いた。
「私はただ彼の面倒を見るつもりで呼んだ訳ではない」
「孫なら何の下心もなく面倒を見ればいい。跡継ぎなら俺がいる。今更波風を立てる必要はないと思わない?」
「彼がいれば、お前はこの家に縛られずに済むんだ」
部屋の外からは凛月くんが階段を上がる音がする。何の配慮もなく発せられた父の本音は彼の耳に届かなかったはずだ。
父の言わんとすることはわかっている。お祖父様のお気に入りになるということは、当主という座に一番近いということだ。だが、寵愛を受けることが幸運とは限らない。示された道を一つも間違うことなく、疑問を持つことすら許されず進み続けなければならないからだ。
父には最初から俺に負い目があった。跡継ぎになるために作られた子供。そうなること以外を望まれていない子供。それ以外に価値がない子供の俺に。父は倫理観も道徳心も真っ当な人だ。そういう言葉が好きなわりに歪みのあるお祖父様よりずっと。
兄は自由に生きた。俺にもその自由を与えたかったのだろう。だが、俺が自由になるためには代わりが要る。
「……父さんが俺のことを心配してくれる気持ちも無碍にはできないな。可愛い甥っ子とも少し話してみるよ」
前向きな返事と共に微笑んでみせると、父はあからさまな安堵を示してしきりに俺を褒めた。
「あの子供が出来損ないの息子の手から離れたのは幸運だった。お前ももう少し狡賢く生きなさい」
父も、結局は京念屋の人間だ。
──
「部屋で待っててとは言ったけど、部屋の前に立ってるとは思わなかったよ」
「あ、その……勝手に入ってはいけないと思って……」
「確かに。ただのお客様に我が物顔で家中を歩き回られたら困るからね」
わざと意地悪く言うと、凛月くんは眉尻を下げて何も言わなかった。
俺の部屋は我ながら簡素で、腰掛けられる場所といえばベッドの上か勉強机の椅子だ。自分は椅子に腰掛け、床に直で座らせるわけにもいかず凛月くんをベッドへと促す。必然的に見下ろす形で向かい合わせになった。
どう話そうか。懐柔するか、それとも脅して二度とこの家に近づけないほうがいいのか。少しの間思案して黙り込んでいると、意外にも先に沈黙を破ったのは凛月くんだった。
「俺、何でもやります。あの人……俺の祖父にあたる人ともそう約束しましたし、これと言って得意なことはないけど、大抵のことは人よりできる自信がありますから」
「君の指す“何でも”と京念屋の求める“何でも”は意味が違うんだ。まずそこを理解したほうがいい」
捨てられる犬や猫が人と同じ言語を喋ることができたなら、きっとこれくらい饒舌になるだろう。
身体より先に口が動く人間は京念屋では通用しない。しかし悪いことに、今彼にできることは口を動かすことだけだということも理解ができた。
「凛月くん、君は何のためにここに来た? 暮らしが安定するまでなら家で面倒を見る。それだけでは不満かな?」
「俺、自分の祖父を名乗る人が現れて嬉しかったです。物心ついたときから母親はいませんでした。父も……こんなこと口にしていいかわかりませんが、良い父とは言えない人でしたから」
良い父だと感じていたのなら無欲を通り越して頭の心配するところだ。
寡黙な質だと思いきや、ちゃんと喋ることもできるらしい。ひょっとしたら父の手前控えていたか、予め言い含められていたのかもしれない。
「祖父は俺を迎え入れてくれると言いました。……家族として」
「つまり君の望みは、この家の家族だと認められることなんだね?」
可哀想な人だ。家族に飢えて自ら虎口に飛び込むなんて。
求めるものが家名がもたらしてくれる地位や名誉ならそれなりに対応ができた。お金ならもっと簡単な話だった。だが、彼の欲するものは家族。愛情や繋がりといった類のものだろう。
「困るんだよね、凛月くんが居たら。俺は当主になるために生きている」
目を細め口角を上げて彼を睨みつける。きっと俺は今悪い顔をしていると思う。
「お、俺……貴方の邪魔をするつもりは、」
「父は君を当主にしたがっている。生憎と君はこの家に近づくだけで俺の邪魔だ」
「お祖父さんの話では貴方は当主になりたくないのだと伺いました」
「他でもない俺が目の前で否定してるだろ? これからもそのつもりだ。強制されたわけでなく、俺がそうしたいからそうしてる」
凛月くんは青い顔で視線を宙に彷徨わせ、狼狽を隠しきれない声色で「貴方の邪魔をするつもりはありません」ともう一度囁いた。
「お願いします、どうか俺をここに、」
「君がどうしても俺と家族になりたいのなら、ペットの枠が空いてるよ?」
君に許された返事は拒否だけだ。どうか伝われ。言葉を飲み込み代わりに微笑んでみせる。
親の身勝手で生まれ、今まで苦労して、親が死ねば今度は別の人間から傀儡のように扱われる。惨めで可哀想な俺の甥。そんな場所に縋る必要なんてない。彼の求める『家族』は自由を手放してまで欲する価値のないものだ。
「…………それでも、いいです」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。強張った表情を気取られないよう聞き返したが、咄嗟に出た声は上擦り動揺を隠し切れていない。
凛月くんは俺の様子を一瞥し、畳み掛けるように言葉を重ねた。
「俺、貴方のペットになります。傍に置いてください」
緑がかった茶色い瞳が俺を見つめる。
昔、小さな頃に兄がいると知った。アルバムの中や使い古された食器に見覚えのない玩具、家の中には彼の痕跡があった。隠されているとは気づいていたが、それを暴いてしまいたくなるほどには子供だったのだ。両親には内緒で人を雇い調べてもらったことがある。そうして手に入れた一枚の写真はとっくの昔に処分してしまったが、そこに映る兄の瞳とよく似ていた。
ふざけるなと怒鳴るべきだったのに、馬鹿なことを言うなと突っぱねるべきだったのに。何も言えなかった。
「うん、わかった。君を俺のペットにしてやるよ」
長い沈黙のあとそう言うと、凛月くんは嬉しそうに笑った。初めて見た彼の笑顔だ。
「他に何か言いたいことはある?」
「……大事に、してくれますか?」
淡く朱に染まった頬に囁くような声。きっとこれは、親が死ぬことで手に入れた自由を放棄してまで欲した家族に求める彼の本音だ。
椅子から立ち上がり、ベッドへ腰掛ける凛月くんに手を伸ばす。頬を撫でると彼は僅かに肩を揺らした。
「約束しよう。君を守るよ」
ペットにしてやる。自分から言い出した手前そう言ったものの、本当にそんな目に遭わせてやるつもりはない。歳上のお兄さんだけど、この人は俺の可愛い甥っ子だ。俺が守ってあげるんだ。そう決めた。
「よろしく凛月くん、今日から君は俺の家族だ」
そうして、君は俺と家族になった。
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