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蝉の鳴き声はやまない。僕の鼓膜を破りたいのかと思うほどに、彼らの命は力強い。たまらず僕は窓を閉めた。
「暑いの、やだよ……」
ミサキは不服そうな顔で僕を見る。
「窓開けてても、大して涼しくねーじゃん」
「そうだけどさ……」
ミサキと僕のために存在するこのワンルームは、暑い。エアコンは壊れたまま放置されている。
僕はなんだか乱暴な気分になって、ミサキを抱きしめた。
「暑いよ、お兄ちゃん」
「黙ってろよ」
ミサキの唇を塞いで、彼女をかろうじて守っていた服を破るような気持ちで剥ぐ。抵抗しない細い喉を柔らかく絞めて、息苦しさに喘ぐ彼女に覆い被さる。
こんなふうにミサキと僕は、命のやり取りをする。僕の体に溜められていた命が、ミサキの体の中に逃げていった。
僕はミサキのお腹をさすった。そんなに太っているわけでもないのに、少しお腹が出ている。
「やっぱり、お腹出てるの嫌い? 痩せたほうがいいかな?」
「嫌いじゃねーよ」
ミサキがミサキであれば、それ以外はどうだっていいのだから。
「ダイエット、しようかな」
ダイエットなんかしなくていいのに、と思いながらも僕は黙っていた。
なんだか何もかもが気怠くて、頭がぼんやりして、何もかもどうでもよかった。目を閉じるとすぐに睡魔がやってきて、僕はそれに従順に、ゆっくりと落ちていく。
——————————
翌日からミサキはダイエットを始めた。ダイエットというより、もはや断食だった。僕がミサキの好物を買ってきて見せても、絶対に口にしなかった。
「お前がやってんのはダイエットじゃねえよ、もはや自殺みたいなもんじゃねーか」
「自殺したらだめなの?」
論点はそこじゃない。
けれど、こんな言い争いに一体何の意味がある?
「好きにしろよ……」
ミサキのために買ったシュークリームを頬張る。僕には食べ物の味がよくわからなかった。きっとこれは甘いのだろうけれど、甘いというのがどういうものか、本当はちゃんと分かってなかった。
でもそんなの、誰も気付かない。
ミサキはずっとベッドに寝転がって、ぼんやり天井を眺めていた。
今日も蝉がうるさくて、窓は閉めたままだ。
ミサキの隣に寝転がって、目を閉じる。まだ夕方にもなっていないのに睡魔は僕を手招くために近付いてくる。
「お兄ちゃん、すき……」
ミサキの甘ったるい声は、あるいはただの夢だったのかもしれない。
——————————
ミサキがダイエットと言う名の断食をはじめて、二週間が経とうとしていた。ミサキは本当に一切何も口にしなかった。数週間程度なら断食しても人間は生きていられると、知識では知っていたけれど、それを目の当たりにするとちょっと不気味だった。
「なんでお腹だけ痩せないのかなぁ」
ミサキは少し出たお腹をさすりながら、泣きそうな顔をしている。もうその腕も足も、病的な細さになっていたけれど、なぜかお腹だけは少し膨らんだままだった。
「諦めろよ、痩せる前の方がかわいかったぜ?」
「やだよ、せっかくここまで痩せたんだから、もうちょっとでお腹もひっこむもん」
言い争うのは本当に面倒で疲れることだから、僕はそれ以上何も言わないことにした。
窓を閉め切っても蝉の叫び声を完全にシャットアウトすることはできない。いつものように、ベッドに寝転がって目を閉じて、睡魔が来るのを待った。
——————————
夏が終わりに近付き、蝉の声があまり聞こえなくなった頃だった。ミサキは倒れた。
元々虚弱体質ではあったけれど、倒れることはなかったし、どう考えても断食のせいだろう。さすがに放っておくわけにもいかず、救急車を呼んだ。
救急車のサイレンの音は、嫌いだ。あの音を聞いていると、僕の体の深い場所で眠っている、得体の知れない情動が、呼び覚まされるような気がする。
ミサキは救急隊員に軽々と運ばれ、その横に僕も座って、病院に連れて行かれた。
病院に着くとミサキはそのまま検査をするためにどこかに運ばれた。僕は指示された場所にあるソファに座って、小さく息をついた。
気怠さは依然として僕にまとわりついていた。病院の中に響くあらゆる音が、ぼんやりと脳内に反響する。目を閉じたら眠ってしまいそうで、意識的にまばたきを繰り返した。
「お兄さんですか」
看護師にゆすられて、僕は目を覚ました。眠らないようにとまばたきを繰り返していたつもりだが、結局は眠ってしまったらしかった。
「はい、ミサキの兄ですが……」
「ミサキさんのことで医師からお話がありますので、着いて来てください」
僕は看護師の後ろを歩いた。きっと栄養失調で倒れただけだろう。そう思いながらも、なんだか背筋に嫌なものを感じながら。
看護師がドアをノックし、そして開く。部屋の中には椅子が二つあって、その片方に医者が座っていた。
「ああ、お兄さんですか。どうぞこちらの椅子にお座りください」
僕は医者の指示通り、椅子に座った。看護師はそれを見届けるとどこかへ行ってしまった。
「ミサキさんですが……」
「なんですか? ただの栄養失調じゃないんですか?」
なんとなく歯切れの悪い医者の言葉が焦れったくて、少し強い口調になってしまう。
「ミサキさんが妊娠していることは、いつからご存知でしたか?」
「え……?」
僕は言葉をなくす。
ミサキが、妊娠している?
「妊娠……、しているんですか?」
「ご存知なかったんですね。ミサキさんは、妊娠していらっしゃいます」
ああ、頭がなんだかくらくらする。
「こんな状態が続いたら、ちゃんと子どもを産むことができませんよ。しっかり栄養を摂らせるようにしないと」
医者が何か言い続けていたが、何も頭に入ってこなかった。
点滴を受けて目を覚ましたミサキを連れて、家に帰った。
ミサキはベッドに寝転がって、自分のお腹をさすっていた。
「太ってるんじゃなくて、赤ちゃんがいたんだぁ……」
なんだかミサキの声は、発したそばからぽろぽろと崩れていくように思えた。
「お兄ちゃんとわたしの子ども……、なんて、どうしたらいいのかなぁ……?」
僕はベッドのふちに腰掛けて、目を閉じた。
おろせばいいじゃん……、なんて、さすがに言えなかった。
そしてこんなときでさえ、睡魔は僕にすり寄ってくる。
「明日、ゆっくり考えよう」
僕はそう言って、ベッドに寝転がった。
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長い夢を見ていた気がする。目を開いて寝返りを打ったけれど、ミサキの姿がなかった。
ミサキが一人で出かけるなんて今まであっただろうか、などと考えながら、顔を洗うために風呂場に向かう。
風呂場のドアを開けたらそこには、ミサキがいた。
バスタブには血の池ができていた。その中にミサキは座り込んでいた。ミサキの傍には包丁が転がっている。
「ミサキ……」
僕の声はかすれて、上手くその名前を呼べなかった。
けれどもし上手くその名前を呼べたところで、ミサキにその声が届くことはなかっただろう。
ミサキが死んでいるのは一目瞭然だった。血だらけの包丁、いくつも大きな傷がついた腹部、そして大きな血溜まり。
「お兄ちゃん、すき……」
きっとそれは、空耳だったのだろう。けれどぞっとするほどリアルな音として、僕の鼓膜に絡み付いた。
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僕はあの声に耳を支配されたまま、今でも生きている。
ミサキは今の僕を見ても、まだ、「お兄ちゃん、すき……」なんて言うだろうか。
そんなこと考えても仕方がない。幸か不幸か、僕の命は続いてしまっている。
ベッドに寝転がって目を閉じる。
睡魔が僕にすり寄ってくる。
きっと次に目を覚ましたら、隣にミサキがいるんだ。僕は長い長い夢からやっと開放されるんだ。
もう何千回目になるかわからない、決して叶わない期待をぼんやりと思い浮かべながら、睡魔が差し出す腕を、掴んだ。
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