1人が本棚に入れています
本棚に追加
苦い思いを抱えながら本棚の間を歩いた。
あれ、こんな本あったっけ。
表紙がボロボロの本を見つけた。
ーあなたの心に問いかけていますー
なんだろうこれ。本のページを捲ると、まるで話しかけているように書かれている。
ーあなたの中で強く願っていることがあるなら。一度だけ目を閉じて願って下さい。願いは叶うかもしれませんー
そんなことあるわけないじゃん。
目を閉じると微かに風が頬を撫でた。
何も起こらない。薄っすらと目を開けると、いつもの教室にいた。
あれ、図書館にいたはずじゃ。
周りの席では女子生徒が甲高い声で中身のない会話をしている。
くだらないな、ふと横を見ると教室に初夏の風が通りすぎた。爽やかな香り。
窓際の少し短いスカートを巻き上げ、私の髪を撫でた。
さっきまでの喧騒が嘘のように私の心は穏やかになっていた。朝から何も考えていなかった。
通路を挟んで隣の彼が来た。
何故か鼓動が早くなり思わず顔を上げた。
彼は誰かの面影があり、どこか物憂げな表情を浮かべていた。何を考えているのだろう。
俯き加減のその横顔は何も喋らないし笑みを浮かべることもない。
「おはよう、その作者の本好きなの」
彼は何も言わず、無表情な顔を下に向けた。
「お、面白いよね。それは新刊だからまだ読んだことない」
僅かに頷いたような気がする。
良い反応を期待していたのに予想が外れて私は正面を向き直した。
やっぱり駄目か。私は筆箱を机に置き、授業の準備をした。
「俺の読んでみる」
聞き間違えることのない彼の声だった。
驚いて横を見ると、困惑した顔をしている。
「ありがとう。ええと」
私はクラスの視線に気がついた。
彼からの提案に驚き過ぎて椅子を倒していた。
顔がほてってくるのがわかる。
差し出された本を受けとると、廊下に向かって歩き出していた。
一刻も早くここから逃げ出したい。
話をしただけなのに何を恥ずかしがっているのか自分でも分からない。
奇妙な物でも見るような視線が痛かった。
そのままロッカーに行き、体操服を取ると更衣室に向かった。
いつも一人だから慣れてる。
1時間目は外でロッククライミングの授業。
手が痛くなるから私は嫌いだ。
ジリジリと日に焼かれながら、集合場所に並び待機していた。
並び順で一人ずつ登っていき、何合目まで行けたかで成績が決まる。
何人か前にさっきの隣の席の彼の顔が見えた。
途端に急に胸が締め付けられ、上手く息が出来ない。
何処を見ているか分からないけど、表情一つ動かさない横顔を見ていた。
ふと彼が壁を見上げた時にこちらに気がついた。
慌てて視線をそらすと先生の説明を聞いていたふりをした。
どちらかといえば華奢な方で、運動が得意には見えない。だけど、私は妙に彼が気になっていた。
そして彼の番が来て私は息を止めていた。
「あかんやろな。せいぜい四合目までか」
そんな野次の声をきっと彼は聞いていない。
眼鏡を外した顔は息をのむ程、凛々しかった。
眼鏡を台の上に置いて、壁に手をかけた。
「今のところ雄大が一位で9合目か」
原田雄大はクラスでも人気の男子で調子に乗っているいわゆる一軍の一人。
無言のまま、一合と登っていく。
四合目まで来たときに女子の笑い声がした。
「嘘。あそこより上までいけるわけないし」
彼は苦しそうな顔一つしない。
八合目に来た頃、額から汗が滴り落ちた。
少し息も上がっている。
ざわめきに変わってきた頃、とうとう頂上のボタンを押した。
先生が記録表を片手に口を開けていた。
「やったぁ」
思わず声を上げていた。
数人の女子がちらちらとこっちを見て笑っている。
「中村さんってもしかしてセンパイのこと好きなんだぁ。へぇ、誰も狙ってないし、陰キャ同士お似合いかも。付き合っちゃえばいいのに。」
いたたまれなくなって、先生に保健室に行く旨を伝えた。
私の去り際に「絶対逃げた。ほんと面白くない」と話してるのが聞こえた。ちゃんと聞こえてるよ。
はぁと小さく溜息をついて校舎に入った。
屈み込み靴を手に取った。
靴箱から見る運動場の景色は陰と光に分けられている。
まるで私だけが薄暗い校舎に残されたような孤独感に襲われる。
皆と同じように騒げたらいいのに。
保健室に向かって歩き出すと背後から足音がした。 靴の乾いた音がする。
授業中なのに誰か居るのかな。
「大丈夫」
私より頭が一つ分は背の高い影があった。
聞き覚えのある声だ。
「はい。少し頭が痛くて」
振り返るとセンパイだった。
「どうして」
「俺もほら無理しすぎたんや。」
手の平には擦り傷があった。
「ほら、行くで。それより、なんで俺をセンパイって呼ぶんや」
思考停止していた。理由は聞いたことないな。
「クラスの連中が呼んでるから自然に、やろ。分かってる」
「え、うん。それはそう」
そのまま黙った状態で保健室に向かった。
心臓が飛び出しそうなのに、どこか懐かしい匂いがする。
このまま話しかけないと一生話せないかもしれない。
太陽が頭上に上り廊下も日が入り、汗ばむくらいになった。保健室のドアを引いた。
「すいません。ちょっと調子が…あれ、先生おらへんな」
中には生徒も先生もいない。
「困ったな」
体操服の胸に目を移すと森山と刺繍があった。
途端に体温が急上昇する。
「どうした。顔赤いで」
保健室の中で見て回ると、絆創膏や消毒液などを見つけた。
「しゃーない。じゃあ、中村が看病してくれへんか」
私の前の椅子に座ると手を出した。
「ええ、そんなのやったことない」
彼は少しふて腐れたように渋い顔をした。わざとやってるなと気付いた。
「いやなら、ええ。自分でやるわ」
彼が手を引っ込めようとした。その瞬間手を掴んでいた。
「やる」
意地になって言い返していた。自分で言うのもあれだけど、不器用に消毒と絆創膏を貼ってあげた。
「ありがと」
彼の満面の笑みを初めて見た。
「何ずっと見てんねん。そんなに珍しいか」
外の歓声も聞こえない。この時間が楽しくて二人きりが嬉しくて。
今の森山先生はどう見てもいつも笑っていて、人が周りに集まってきて、昔は陽キャだったんだろうと思っていた。
「森山君はさ、いつも一人だね。私も一緒だけど。淋しくないの」
一人ぼっちが二人いる。そんな気がした。
「淋しくなんかない。俺はずっと学生生活を満喫してる。一人やけど独りではない」
彼を見ると彼の横顔は、窓の外を見ていた。
「なんかさ、呆れてまうな。
格好つけてるだけやのに。本当は、あいつらみたいに騒ぎたいし。阿保丸出しで部活にも熱中したいねん。せやけど、なんか吹っ切れなくて。俺だけ気後れしてる」
彼の目が遠くを見ている。
「そろそろ出よう。あと三十分もあるけど」
利用者表に書き入れると保健室を出た。
扉に手をかけた時、頭に何かが乗った。
氷袋だった。落ちないように手を上げて掴んだ。
「頭痛いんやろ」
見上げると悪戯をしている子供のような笑った顔をしていた。
「仮病なんかばれたら怒られるやろ」
額に冷たい物がくっついた。私は咄嗟にひゃっと身体を縮こませた。
「変な声出しなや」
彼が笑っている。
「だって、急に冷えピタ張るから」
保健室を出ると靴箱と別の方向へ歩いていった。
「森山くん。運動場いかないの」
「今から何処へ行こか。ここまできたらサボるしか道はないやろ」
楽しそうな顔が妙に眩しくて目をそらした。
「え、そんなこと言っても」
彼は少し早足で歩き出した。
必死に着いていくと教室前に来た。
「何するの」
真っ直ぐに廊下の先を見ている。
「ここを低姿勢で通り抜けて、あそこの階段に行く。どっちが先に着くか勝負や。よーいドン」
走り出した彼の背中を追いかけた。
隣には授業中の教室が並んでいる。
足音にも細心の注意を払い、立ち上がったら窓から顔が出ないように走る。
想像以上に緊張するな。
滑り込んで階段に着くと、先に着いた森山君が居た。
危ないと思った時には廊下が滑ってそのまま突っ込んで上に倒れ込んでしまった。
「ごめん、大丈夫」
起き上がるとすぐそこに顔があった。
「大丈夫や。横についてる手どけてくれへん。色々危ないから」
彼の顔が少し赤くなった。
立ち上がってスカートを叩くと、彼も何事もなかったように服の埃を払った。
彼は何も言わずに階段を登っていった。
ついて階段を上がるとそこは、屋上だった。
「ここ立入禁止でしょ」
「徹底的に悪になるしかあらへん。大丈夫」
ドアノブを捻り、外へ出た。
日が照って暖かく、空気が澄んでいて気持ちいい。
胸一杯に新鮮な空気を取り入れて、息を吐いた。
突風が吹いて髪が流される。
「気持ちいい。初めて授業サボっちゃった。なんかドキドキする。悪いことしてる気がする」
笑みがこぼれる。ベンチに座っていた後ろ姿が振り返った。
「パンツ見えてる」
慌てて前を確認した。
「嘘やって。ほんまに信じ過ぎ。ほら、これあげる」
腹を抱えて笑っている手からペットボトルを引ったくった。
隣に座ると目の前ではクラスメートが体育の体操をしているのが見える。少し甘い有名な炭酸飲料はいつ飲んでも美味しい。
「それ、間接キス」
驚いて横を見ると薄く目を開けこっちを見ていた。
「嘘。次は騙されないから」
目を僅かに開いた。
「嘘やないよ。本当の方をするか」
唇に柔らかな感触が残った。
彼はさっきの優しい笑顔で言った。
「次はどんな悪いことしようか」
ファーストキスを奪われた。それだけで大混乱。
「馬鹿じゃないの、最低」
今の先生と変わらないな。
こういう人を馬鹿にしたところも。
それから私達は仲を深めた。
若い頃の先生と同じクラスのこのパラレルワールドを半信半疑で毎日目を覚ましては、安心していた。
この夢はいつ覚めるんだろう。
また、先生と生徒の関係に戻ってしまうんだな。
最初のコメントを投稿しよう!