〆切を金で買う

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〆切を金で買う

 あなたは〆切を金で買ったことがあるか。  私はある。割増入稿というやつだ。      ***  〆切ギリギリ入稿ヒューマンの間では周知の事実だが、割増入稿をすると、印刷費が上がる代わりに〆切が伸びる。  〆切が伸びると、落ちるはずだった新刊が息を吹き返す。  〆切を買ったことがないあなたは、ぜひともそのまま、清らかで高潔な精神を魂に宿したまま、つつがなく創作人生をまっとうしてほしい。  なんてのは建前で、私はそういったキラキラ進捗おりこう原稿ヒューマンをそこそこ妬んでいる。  妬むなどお門違いであると理解はしているし、だからといって相手を攻撃したり人格まで嫌いになったりはしないけれど、それとこれとは話が別なのだ。私怨である。  一度でも〆切を金で買った者は皆、脛に傷を持っている。  早期入稿の常連を見たときに「わあ素敵! 立派だなあ。私も頑張らなくちゃ!」なんて思えるのはよほどの人格者だけだ。  こっちだって、できることなら早期入稿したかった。むしろ最初はそのつもりだった。早期入稿が通常入稿になり、原稿が終わらず、それでも新刊が諦めきれないから割増に手を染めたのだ。  〆切を金で買うということは、過去の自分との約束を破るということ。  人として一線を踏み越える行為だ。  自分の怠惰と無計画を金で解決すると決めたとき、己の純心は己が手で殺した。  どう取り繕ったところで、いまさらカタギに戻れるなどと期待してはいない。  極道入稿とはよく言ったものである。      ***  とはいえ、こんな疑問も浮かんでくる。 「過去の自分との約束を破るくらいのこと、誰にでも経験があるはず。それを『人として一線を踏み越える行為』などと言い切るのは、いささかやり過ぎではないか?」  なるほど、そうかもしれない。  実際のところ私だって、自分との約束を破った経験は多々ある。  〆切一週間前、原稿終わるまで手をつけないと決めていたソシャゲの新章を読み始めてしまったり、間食を控えると決めていたのに原稿しながらグミを一袋食べてしまったり、ちゃんとデスクを片付けようと気合いを入れたのに気づけば『魍魎の匣』を読み終わっていたり――。  こんな些細な堕落のたびに人として一線を踏み越えていたら、それはもう反復横跳びに似た競技の一種だ。  もし選手権が開催されたなら、私は生まれ持った溢れんばかりの才能でもって、この競技の世界レコードをなんなく塗り替えることができるだろう――なんてくだらないことがスラスラと思いつくくらいには、私は自分の堕落に対して甘い。  それに買い手としての私は、例えば好きな作家がイベント合わせの新刊を落としていたところで「忙しかったんだね」「なんだかんだ体調が第一だよ」「落とす勇気に百点満点!」と思うだけだ。  同類相憐れむと言ってしまえばそれまで。  だが、もしそうだとしても、最後まで原稿に向き合った末、新刊を落とすという苦渋の決断を下した作者に向ける、尊敬の念に嘘はない。  しかし同時に、自分自身が〆切を破り新刊を落としたが最後、どうあっても許せないほど己を憎んでしまう気持ちも本物なのだ。  他の堕落は許せるけど〆切を破るのはだめ。  他人はいいけど自分はだめ。  〆切を金で買い、修羅の道に身を落としたとしてもイベ合わせ新刊だけは落としたくない。  一体どこで何をどうしたせいで、こんなにも矛盾した生きづらい感情を抱え込むことになったのか。  他人の新刊にそこまで冷静な対応ができるのなら、自分の新刊にも同じくらい冷静になってほしい。  原稿だけが人生ではないのだ。もういい大人なのだから、もっと大切にすべきことが他にいくらでもあるのではないか?  何かがおかしい。  本当の私は、もっと穏やかな人間であるはずなのだ。  仕事は基本デスクワークだし、原稿さえなければ早寝遅起き。よく食べ笑ってそこそこ動き、趣味は散歩と読書とホットヨガだ。  それなのに、どうしてイベ合わせ新刊のこととなると、こうも鬼気迫ってしまうのだろう。  別に、イベントに出るなら新刊を出せと誰かに強制されてるわけではない。  イベントに新刊を出すかどうかはそれぞれのサークルが自由に決めることだし、落とすかどうかを決める自由もサークル側にある。  そう、落とす自由もサークル側にある。サークル側には新刊を出さない自由があるのだ。  そんなことはわかっている。  頭でシステムを理解している程度でどうこうできるなら、自分で〆切を決め勝手に追い詰められてのたうち回ったりはしない。      ***  昔、〆切まで後二週間というところで突発的に仕事が入り、やむなく新刊を落としたことがあった。  私は今の仕事が好きだし、新刊を落とすと決めた自分の決断に悔いはない。  悔いはないが、それはそれとしてイベントの前後は散々だったと記憶している。  まず新刊を落とすと決めた段階で、SNSに「新刊ダメでした」と告知を出す。  それ以降は、できるだけSNSを薄目で見るよう心掛ける。  他の人の「新刊あります!」宣言を見るたび、見当違いの憎悪と、新刊制作の時間を無事捻出できた誰かへの僻みで、部屋を転げ回ってしまいそうになるからだ。  新刊に向けた原稿続きの日々、そのままシームレスに急ぎの仕事へと移行していたので、部屋の床を掃除する余裕はなかった。  そしてイベント前日、自分のスペースに掲示する宣材を作るのがまた辛い。  看板代わりの大きなスケッチブックに、視認性の高い黒マジックで書いた「新刊落としました」の文字が、生まれるはずだった本の遺影に見える。  すでに印刷していたお品書きにもマジックでバツをつけ、SNSでもう一度「新刊ないです」と宣言しておく。 「本当は、『新刊あります!』って言うつもりだったのにね」  私の中のジメジメ氏が囁く。 「もう終わった話だし、イベントはこれからもあるじゃん! 新刊がないから帰りの荷物も少ないし! 今日は買うぞ~!」  ジメジメ氏を羽交い絞めにし、そう言ったのは諦め氏だ。  口調は明るいが、目も口も笑ってはいない。  諦め氏は昨晩、すべてを諦め平らかな心で残りの生を送ると決めたので、表情を作ることももちろん諦めている。  イベント会場へ向かう道中も試練は続いた。  会場に近づけば近づくほど、自分と同じように大きな荷物を持った人が増えてくる。  顔見知りはいないが、雰囲気でわかる。同じイベントに出るサークル参加者たちだ。  なにとはなく見回すと、誰も彼も、私より大きな荷物を持っている気がした。 「新刊かなあ」そんなことを考え始めると止まらない。  あっちの人が持ってる黒い筒は新刊のポスターだろう。隣に座る人がスマートフォンを弄っているのは、きっとSNSで新刊の告知中だからだ。そうに決まっている。雰囲気でわかる――。 「わかるわけないんだよなあ、雰囲気で」諦め氏が言う。私もそう思う。  その隣でジメジメ氏が呟いた。 「新刊、印刷所で刷るタイプの人は大抵が会場直接搬入だもんね。本当の絶望は会場入りしてからですよ」  ジメジメ氏が泣いている。泣きたいのはこっちだ。もうすでに心はちょっと泣いている。  会場入りし、お隣のサークルさんに挨拶して、自分のスペースの設営を無心で終わらせる。  イベントが始まり、だいたい一時間か二時間くらいで人の流れが落ち着いてくる。 「新刊ないし、しばらく人来ないんじゃない? 買い物いこ!」  諦め氏が私の袖を引く。私もジメジメ氏も立ち上がり、サークルスペースに布をかけて席を立つ。  そこから閉会までは、すべてを忘れて楽しい時間を過ごした。  お目当ての本を買い、ふらりと立ち読みした本が大当たりで、興味ないスペースの前を素通りするつもりがうっかり本を買ってしまった。  自分のスペースで買ったばかりの本を読み、スペース前で足を止めてくれた方に無料配布の冊子をすすめる。閉会時間になったらスペースを片付け、両隣にのサークルさんに挨拶をして会場を去る。 「今日いっぱい買えたね!」  帰りの電車の中、諦め氏はわりとご機嫌だ。肩に掛けた布製トートバックの、やや常軌を逸した重さが嬉しい。 「でもさあ」  ジメジメ氏がぽつりと言う。 「みんな新刊出してたね」 「なんでそんなこと言うの?」と、諦め氏。  なんでそんなこと言うの? こっちは私。  なお、この悲しい出来事から数か月後。  コロナウイルスってヤツが徐々に存在感を発揮し始め、私はあれ以降リアルイベントに参加できていない。  諦め氏の、声色だけの空笑いが脳裡に蘇る。 「もう終わった話だし、イベントはこれからもあるじゃん! 」  なくなることもあるんだよ!  思い出すたび、諦め氏に当たり散らしたくなる。しかし何も言えない。  だって新刊を落としたのは私なのだから。  恐らく、新刊を落とした作家が皆、ここまでジメジメとイベントに参加しているわけではない――と、思う。たぶん。私が新刊に執着しすぎなのだ。  新刊を落としたってジメジメせず、さっぱり切り替えてめいっぱいイベントを楽しめる人はいくらでもいるし、きっとそっちの方がスマートだ。心の健康にもよい。  思えば、あの頃の私は未熟だった。清らかであったと言い換えることもできる。  今の私なら、絶対に新刊を諦めはしなかっただろう。  確実に〆切を金で買っていた。      ***  また、こうも考えられる。  〆切を金で買うほどに新刊への執着心が強いのは、「一度落としたらもうこの話を完結させることができなくなるかも」という恐怖に怯えているからではないか?  私は書くことが好きだ。 「自分が書きたい話を書いてるんだから、一度落としても続きは書くでしょ」とも思っている。  それはその通り。実際〆切に間に合わなかった作品も、続きは書かれている。  しかし書きはしたとて、〆切がないと作品を完成させられないのもまた事実なのだ。  実は、一度落としてしまったまま、ずるずると完成を先延ばしにしてしまっている作品がある。  その作品について考えることに、飽きたわけではない。  ただ、引きどころがわからなくなってしまったのだ。  その事実に気がついたとき、私はその作品からいったん手を引いた。  でも、まだテキストファイルは消してない。あれを完成させれば、あの日新刊を落とした屈辱を乗り越えられるような気がするから――。  おかしくないか?  ただの趣味の活動で「屈辱」なんて言葉が出てくることがあるか?  なんで私はここまで追い詰められているのだろう。  どうして、どうしてこんなことに。      ***  それはさておき、割増入稿である。  ポジティブに捉えれば、〆切を金で買ってしまうのは、私が新刊に人間性を売り渡した悪鬼羅刹だからではない。 「どうにかイベントに本を間に合わせたい!」という前向きな気持ちが強すぎるからだ。  意志が強いと表現することも可能だろう。  そう言い換えて、なんとか己の心を守っている。  言い換えないと守れないのだ。  私は「イベント当日に新刊がある」という自己満足のためだけに、銭を失い、睡眠時間を削り肌を荒らし、印刷所の人に無用な残業を強いている。  こんな現状を、かつての私が見たらなんと言うか――。  私が絵や字を書くオタクとして自我を得て間もない頃、出せる本といえばコピー本一択だった。  まだ実家住まいで、おこづかいは月に五百円。アルバイトは禁止。  単純にお金がなかったのだ。  でも「本を出したい」という気持ちだけは溢れるほどあった。  原稿用紙ではなくコピー用紙で原稿を作り、コンビニでコピーして、親の目を盗んではホチキスで止めた。  カラーコピーするお金はなかったので、モノクロ印刷した紙にひとつひとつ、色鉛筆で色をつけたこともある。  イベント参加費を友人と折半したとしても、文具代にコピー代、イベント会場への交通費――イベントに出るには、お年玉と半年以上貯めたお小遣いをまるまるつぎ込む必要があった。  そうして得たサークルチケットは、何ものにも代えがたい宝物だったと記憶している。  かつての私はイベントのために生きていた。  お金も時間も、すべてをイベントに注ぎ込んでいたのだ。  若さゆえの体力もあるだろうが、懸ける情熱が違った。  あの頃の私には、たとえ学業を犠牲にしたとしても、イベント合わせの本を作らないという選択肢はなかっただろう。  苦労はあれど楽しい同人活動。  大きな不満はなかったけれど、同時にこうも思っていた。 「もっと大人になってお金をたくさん使えるようになれば、もっといっぱい本が出せるのになあ」  あの頃のことを想うと、シンプルに胸が痛い。  大人になり、自由にできるお金が手に入った今。  私はそのお金で本をたくさん作るのではなく、仕事の合間に「新刊あります」と言いたいがためだけに〆切を金で買っているのだ。  大変申し訳ない。  怒られてしかるべきである。      ***  とはいえ私は大人になり、仕事を得て趣味の幅も広がった。  本を作ることでしか燻る何かを燃やせなかった、あの頃とは違うのだ。  情熱は穏やかになり、無理をしないことを覚え、学生よりはちょっと贅沢にお金を使いながら同人という趣味を楽しんでいる。  そうなっていたかった。否、そうなっているはずだった。  なのに私は、今だに強すぎる執着でもってイベント合わせの新刊を切望している。  すべてを犠牲にして活動していたあの頃から、イベント合わせ新刊を出すことに対する気持ちをアップデートできないまま大人になってしまった。  わかっている。私だって本当は早割当然余裕入稿ヒューマンになりたい。  おりこう早期入稿、だめそうなら無理せず次のイベントに新刊を回してクオリティアップ――そういうことができる人間を妬んでしまうのは、ひとえにその冷静さが羨ましいからだ。  私からは冷静に、余裕を持って本を作っているように見えていたとしても、本当は各人にそれぞれの苦労があるのだろう。  本を作るってそういうことだ。  羨ましいなんて言われるのは居心地が悪い、そう思う人もいるかもしれない。  だが、だからなんだと言うのだ。言っただろ私怨だって。  私だってあんなふうに大人らしく、気持ちと情熱をスマートにアップデートして無様を晒すことなく同人活動がしたかった。  お洒落でクール、もしくはほわほわと柔らかな光を放つ落ち着いた雰囲気のSNSアカウントを運営したかった。  欲を言えば三か月に一回はイベントに参加して、毎回五百ページの文庫本を出せるスーパー速筆同人作家になりたかった。  こんな状態から抜け出したいのは山々だけれど、それでも不思議と「本を作るのやめようかな」とは思えなくて――残念ながら私は未だイベントのたび〆切にあえぎ、そこそこの頻度で〆切を金で買っている。  理性がない。  力が足りない。  〆切が守れない。  ないないづくしの情けない有様だけれど、無様なりに書くことを続けていれば、いつかは大人にクールにスマートに、〆切を買うことなくコンスタントに本を出せるような、そんな理想の同人作家になれると信じて――。      ***  さて。  この文章は、とあるクリティカルな問題についてあえて触れずにここまできた。 「計画をきちんと立て、たっぷり余裕をもって遂行する力があれば〆切を金で買うこともないのでは?」  馬鹿を言え、それができるほど勤勉であればこんな苦労はしていないし、『教えて君のスケジュール管理~〆切、どうしたらお前を守れるんだ!? 教えてくれよ!!~』なんていうタイトルのオンリーイベントを主催したりもしない。  計画が崩れる理由と経緯については、同エッセイ別項目『〆切は増える』に記す。暇を持て余している方はぜひご覧ください。
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