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かつて、この国にはエルフがいた。エルフは何千年、何万年とも生きる不死の一族、いつまでも輝く美しさを持つ一族であり、その永く続く命を持って人の進むべき道を助けていた。そして人もまた、その教えを請うていた。何よりエルフが人に説いたのは、この永遠の命が必ずしも良いものではないということだった。死を知る一族が、人が永遠の命を持つことは恐ろしいことだとエルフは言った。命が欲望のために永遠に使われていくからである。エルフは不死がもたらす恐怖があることを知っているが、人はそれを知ることはない。知らざる者はそれを持つべきではないのだ。命の定めに逆らうことが、どんなに愚かなことかを、エルフは人間に言って聞かせた。人々は約束した。永遠の命を欲しがらず、命ある限りを美しく生きると。
だが、その永遠を欲する人間がいた。その男の名はフォレイブス。ある屋敷の召使いだった。彼は屋敷の娘、オルメナに恋をしていた。フォレイブスが永遠の命を恋焦がれる彼女に与えたいと思ったのは、彼が38、オルメナが26の齢の時であった。
オルメナは白い光る肌に金木犀のような黄金色の髪を持ち、国内随一の歌声も持つ美しい少女だった。彼女の美貌は国中に伝わるほどであり、エルフたちも彼女の美しさに一目置いていた。また、彼女は心までもが美しかった。フォレイブスはその醜さからいつも屋敷で虐げられていたが、オルメナだけは彼に優しかった。傷だらけの彼に、切り傷に効く薬草を教えてくれたり、たまにこっそり字を教えてくれたりもした。彼女は決まって、フォレイブスに言う言葉があった。
「見た目がどうとか、ほおっておきなさいね。いつも正しくあれば、きっといいことがあるわ」
フォレイブスはこの言葉を胸に、屋敷での辛い日々を乗り越えていた。そんなある日のことである。屋敷の主人が客人と話しているのを偶然耳にしたのだ。
「貴殿のお嬢さんは婚約はなさらないのですか?もう20も過ぎてしまっているでしょう」
「ううむ、娘はなかなか好みにうるさくてな、娘に合う地位、美貌を持った青年を薦めても嫌だと言うのだ」
「お嬢さんの美貌といえど、30を過ぎればやがて衰えてしまいますよ。良い条件の結婚を得るには、美しさ、若さ、地位なのですから」
「娘、オルメナとて、それはわかっているであろう。説得はするつもりだ。ご心配どうも」
この時、初めてフォレイブスは彼女が年を取り、衰え、老婆になることを考え、知ったのである。彼の心には美しい純真な彼女が微笑んでいる。この刻を止めることは彼にとって死よりも恐ろしいことであった。
ある晩、オルメナは主人に頬を殴られたフォレイブスに、冷やすための氷を持ってきてくれていた。隣に腰掛け、痛かったでしょう、と氷を渡してくれる彼女を見てフォレイブスは思わず口を開いた。
「お嬢様、私は偶然お嬢様の結婚の話を聞きました。まだ、婚約なさらないと…。ご主人さまは、その、お嬢様の、年齢、いえ、その…」
「行き遅れになると、父は言っていたのでしょう。知っているわ」
オルメアははっきりとした口調で言った。そして、フォレイブスの眼を見て言った。
「私はあんな人間となど結婚したくはないのです。権力と欲望にまみれた獣たち! 私に近づくのはそんな男ばかり! 立派な地位を持ちながら、何故正しく、人のためにいきられないのです?」
その瞳には涙が溜まっていた。ゆらぐ水面には月の光が煌めいていた。彼女の涙は美しい湖そのものであるとフォレイブスは魅入られた。しかし、その湖の上に、激しい炎がゆらいでいることにフォレイブスは気づいた。
「私は、ここを出たいと、そう思っています」
彼女の瞳は燃えていた。美しい、猛々しい炎によって。
「お嬢様、出ていくとは、どこへ行くというのですか?」
フォレイブスは耳を疑った。彼女がここを出ていくなど、考えたこともなかったからだ。フォレイブスの手が震えるのがわかった。
「私はエルフの国に行きます。あなたも見たことがあるでしょう、月に一度屋敷に歌のレッスンに来るエルフのリイス。彼についていくの、彼とエルフの国で歌をうたうわ」
そんなことは不可能だ、とフォレイブスは彼女の瞳に訴えた。エルフと生きていくなどできない、何故ならエルフのリイスは不死で、オルメナは死を待つ人間なのだから。いくら彼女が彼を愛そうとも、彼女だけが、時間の波に飲まれ死んでいくのだから。
「あなたが老いて死しても、リイスはきっと今のままなのですよ。そんなこと――私が耐えられません」
フォレイブスは涙を流した。醜い彼から流れる、唯一の美しいものであった。
「フォレイブス、私は永遠の命がなくとも、彼とともに生きたいの。その時間は、私が婚約を迫られたどの男と過ごす時間よりも、尊いと思うから」
オルメナはフォレイブスの涙を袖でそっと拭った。
「お嬢様、しかしエルフの全てが正しいとは限らないのです。それでも、リイスについていくのですか」
「エルフは正しいわよ、フォレイブス。少なくとも、人間よりは。いいこと、フォレイブス。このことを誰にも言わないで。次の満月の晩に私はここを出る、こっそりとね。そしてインショル川まででたら、彼の馬車に乗るわ。もし、お父様が私のことを言っていたら、都の方へ、婚約者の元へ返事をしに向かったと伝えて。今紹介されてる嫌な男よ。彼のもとへ恋焦がれて向かったと伝えて」
そう言うとオルメナはフォレイブスの額に軽いキスをして去っていった。フォレイブスは彼女の温もりを確かめるように額を撫で、泣いた。彼女を幸せにしたかったのだ。召使いの自分にできることはないのかと、一生懸命考えた。そして、泣いて泣いて考え、満月の日、彼は都に向かったのである。
都には人間、エルフ、ドワーフ、様々な種族が行き交っていた。フォレイブスは深くローブをまとい、泣きはらした目で行き交う人々の様子を伺っていた。頭の中にはオルメナを幸せにすることだけを考えて。
あるエルフの幼い女の子がフォレイブスの眼に止まった。幼くも儚い美しさを持つその子はどこかオルメナに似ていた。その子の母親が目を離した瞬間、フォレイブスは幼いエルフの子の口を塞ぎ、路地裏へ連れ込んだ。恐怖におびえる幼い瞳がフォレイブスを捉える。フォレイブスはナイフを女の子の喉元に突きつけ、問いかけた。
「名前は? お嬢さん」
ナイフがゆっくりと喉元を圧迫していく。女の子は震えた声で答えた。
「……スウィンナ」
その瞬間、幼き儚い輝きは途絶えた。
フォレイブスは走った。屋敷に向かって、走った。手には布に包まれたスウィンナの一部があった。何よりも大事にそれを抱え、フォレイブスは屋敷へ戻った。屋敷へ戻ると、その一部を入れたパイを大急ぎで焼いた。そしてこっそりと荷造りをしているであろう彼女の部屋へパイを持って行った。
「あら、フォレイブス。なあに、パイを持ってきてくれたの」
オルメナは笑顔でパイを受け取り、フォレイブスを部屋に招いた。
「お嬢様、ぜひ、最後の日に食べて頂きたくて。私のような醜い者のパイなど恐れ多いですが、ぜひ一口だけでも」
フォレイブスはこの上ない興奮を覚えていた。
「まあ、そんなことないわ。そうね、一口いただくわね。あなたが餞別に焼いてくれたパイですもの」
オルメナはパイを切り取るとゆっくりと口に運んだ。フォレイブスはその動きに目が離せなかった。彼女の口に入り、咀嚼し、喉を通り、彼女の体へ染みこんでいく。フォレイブスは興奮を抑えられず、愚かにもその興奮を口にした。
「ああ、お嬢様、これで、お嬢様は永久に美しく、永久に幸せな、永久の歌姫となられる……!」
その瞬間、一気に空気が張り詰めたのがフォレイブスにはわかった。同時に、自分が口にした言葉の意味をオルメナが理解したことも。
「フォレイブス、今なんと言った? 私が、永遠の歌姫になるですって? あなた、このパイに何を入れたの? 言いなさい、言いなさい!」
今まで見たことのない、彼女の怒りの姿であった。しかし、フォレイブスにはその怒りさえも美しく思えた。
「貴方様のためなのです、人間のままエルフの国に行けばきっと苦しまれることとなる。エルフの力を持ってリイスと共に旅立つのが一番なのですよ。私はお嬢様のために――」
フォレイブスの視界に短剣が現れた。オルメナは怒りと悲しみの涙を流して言った。
「私は永遠の命など欲していない。限りある命で正しいものを見て正しいことしたかったの。永遠の命を持つ人間などただの化け物よ。与えられていない生を這いつくばって生きるなど、私には耐えられない。」
フォレイブスは何が間違っていたのか考えていた。オルメナの幸せを考えてやったことが何故彼女を悲しませているのか。彼女をもっと説得すべきだったのか。あの幼いエルフは死ぬべきだったのか。
「フォレイブス、あなた、私を愛しているわね?」
涙を流しながらオルメナは言った。フォレイブスは、声を大にして答えた。
「もちろんです。あなたほど素晴らしい方はいません」
オルメナは短剣を持たない方の手でフォレイブスにパイを差し出した。
「ならば、私のいうことをきくわね。このパイを、あなたも食べなさい」
フォレイブスは耳を疑った。
「お嬢様、ご冗談を。私のような醜い者が生きながらえても何も良いことはありません。私には、もったいないのです」
オルメナは呟くように、しかしはっきりと言った。
「だからなのです。これは、私の呪いです。おまえが落ち葉のように地べたをずっと這う呪いをかけるの。永遠に、この世の枯れ葉となり、醜いエルフ殺しとして生きながらえるがいい! お前に死は許さない。私の未来を閉ざしたお前には。さあ、食べなさい!」
フォレイブスは慌ててパイを手に取った。だがその眼はオルメナから逸らされることはなかった。フォレイブスが自ら殺したエルフのパイをひとかけら飲み込むのを確認すると、オルメナは短剣をフォレイブスから遠ざけ、言った。
「枯れ葉のフォレイブス、言葉の呪いは永遠に続く。私はお前を呪う。あの世からでも」
彼女は自分の喉を切り裂いた。血しぶきを浴びたフォレイブスはまだ彼女から目を離さずにいられなかった。だが、死を迎えた彼女の顔は悲壮に満ちており、醜ささえも感じられた。フォレイブスは初めて自分の過ちに気付いた。彼女の夢を奪い、醜い死を遂げさせたのは自分だと。彼女が生を全うして死を迎えていたらどんなに美しかったのかを、彼は知ることができなくなってしまったのだ。
彼は彼女の亡骸からペンダントを取り、握りしめて泣きながら屋敷を走り去った。満月が彼を照らし金木犀の香りが彼を包んでいた。それは永遠に死を許さないオルメナの呪いを意味しているようであった。フォレイブスは落ち葉を踏みつけ、あてもなく彷徨った。その後の彼を、見た人はいない。彼は亡霊のようになったとも言われ、またオルメナに許しを請い続け石となって生きているとも言われ、また、その純粋かつ凶悪な心ゆえに、満月の光と金木犀の香りから逃れるために、闇の国へ迷い込んだとも言われている。エルフは人間が幼いエルフの子を殺したことに憤慨し、賢いオルメナを失った人間を愚かだと罵った。これを機にエルフは人間を見限り、しばらくして人間の地を完全に去ったという。
エルフは伝説のものとなった頃、秋の満月の日。人々はかつての歌姫を想い正しい道への祈りを今もささげており、祈りの歌でエルフへの先祖の過に対する許しを請うていた。その時には魔除けとして庭には必ず金木犀が植えられていたという。
人々は祈るしかなかった。炎が燃え広がる大地を眼前にして、祈るしかなかったのだ。
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