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那智勝浦と補陀落渡海と牛王神符
こんにちは。前のページを読み返して、この人めっちゃ早口で喋ってるやん、と自分を客観視してしまった多数存在です。
いえ、皆さんがガンプラや宝石になど興味がないことは重々承知しております。
もっと古墳や史跡、石仏を見せろとのお声が聞こえてくるようです。
残念ながら今回も古墳ではないのですが、それに勝るとも劣らない史跡を訪れましたのでご報告させていただきます。
とはいっても11月の末のことですので、かなり日にちが過ぎてしまっているのですが。
どこのお寺かといいますと、那智勝浦の補陀落山寺です。
写真がピンボケ気味ですので以下にテキストを。
補陀洛山寺
(補陀落渡海)
これは那智参詣曼荼羅をもとに復元した補陀落渡海船です。補陀洛山寺の住職たちはこのような船で補陀落渡海に臨みました。補陀落渡海は慈悲の仏である観音菩薩が住まう南方の浄土「補陀落」にたどり着くことを祈願して行われた一種の殉教でした。
中世から近世にかけて日本各地の沿岸部で試みられましたが、この寺は補陀落渡海の出発の地として特に有名でした。補陀洛山寺の中庭にある石碑には、868年から1722年までの間に行われた20回以上の補陀落渡海が列記されています。ただし、最後の数回については僧侶が亡くなってから遺体を船に乗せる形で行われました。
補陀落渡海船
この船で最も目を引く特徴は、閉ざされた船室です。外側から釘でふさがれた窓も扉もない船室には、わずかな食料と水、灯りの燃料が入れられ、僧侶が死の直前まで経を唱え、観音菩薩に折り続けられるようになっていました。
船室は、四十九本の板でつくられた鮮やかな朱塗りの柵で囲まれていました。柵には四方に一基ずつ、合わせて四基の鳥居が設置されていました。これは仏教建築というよりは神道の神社を想起させるもので、熊野信仰の習合的な性質を反映しています。また、この船のつくりは修験道の葬送儀礼とも通じる部分があります。行者自身と世の中の両方に大きな功徳をもたらそうとしたことにおいて、補陀落渡海は修験道の苦行に近いものと見なされていたのかもしれません。
本堂。
本堂向かって右手には石仏がありました。
何の仏像かはよく分かりませんでした。
実は本堂向かって左の建物が僕の目的とする場所でした。
補陀落渡海船(復元)です。
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