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大晦日の滑り込みにもう一件だけ、古墳写真をあげておきます。
こういう努力家なところが自分でも好きです。
って、書いてたんですけど、年越してしまいました。
あけましておめでとうございます。
で、古墳です。
訪れたのは12月10日です。京都のとある大学の構内です。
この写真では分かりにくいですが、石碑には下司古墳群と彫られています。
テキストを。
スマホのGoogleレンズからPCにコピペを簡単に送れることに気付きました。Google先生の便利さがやばい。
下司古墳群(京都府指定史跡)
この古墳群は7世紀前半ころ、普賢寺谷を望む丘陵の南斜面に築造された8基からなる群集墳です。 1~4号墳は1963年に京都府教育委員会が、 5~8号墳は1983年に同志社大学が発掘調査を実施しました。
いずれの古墳も、南に開口する横穴式石室を築いて埋葬施設とし、背後に空堀をめぐらせ、 多少の土砂を盛り上げて墳丘を築するもので、2号墳にその状況をよく見ることができます。 石室の構築には生駒山周辺に産出するハンレイ岩や花崗岩が用いられ、なかでも1号はひときわ大きな石を使用した南山城屈指の大型石室です。
これらの古墳の築造直後、また追葬が行われていた7世紀後半には、南西約500mの地点に筒城寺(普賢寺跡、現在の観音寺)が建立され、当古墳群の造集団にかかわる氏寺とみなすことができそうです。 本古墳群は、古墳・寺・氏族の関係をとおした古代史解明にとって重要な遺跡です。
石が並んでいました。
特に説明書きとかはなかったのですが、古墳群の一角ですので、これも石室の跡ではないかと思います。
で、次は6号古墳。ここは説明板が設置されています。
下司6号古墳
横穴式石室を埋葬施設とした。この古墳群中でもっとも小規模な古墳です。石室は無袖で、南に開口しており、その規模は全長2.45M幅 0.85M高さは0.70 M前後あったものと推定されます。 石室に使用された石材は、そのほとんどが斑れい岩です。
石室の東側と西側には噴丘を区画したとおもわれる幅 1M程の浅い溝が発掘されました。この溝の間隔は 14Mありこれが墳丘の規模とみられます。 しかし増丘の大半は既に流失しており墳丘の形を知ることはでき ませんでした。 石室内からは須恵器2点のほか木棺に使用された鉄釘7点が出土しました。
須恵器の年代からみてこの古墳は7世紀前の半から中頃にかけて築造されたものと考えられます。
石室の石だけが残ってますが、たしかに小規模です。
さらに山道を行きます。
大学の構内とは思えない、ただの山です。
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