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さて、色々と見て回ろうかと思い、撮影の可否を尋ねようと、奥の部屋におられた館長さん?職員さん?に声をかけたところ、自由に撮影をしてもらって大丈夫ですとの返事をいただきました。
そして、どちらからいらしたんですか?の問い掛けから始まり、展示物や展示物とは関係のない歴史の話まで色々な解説をしてくださいました。
マスクをしているのでお顔もよく分からなかったのですが、たぶん年配の女性で、落ち着いた物腰から、漫画ブルーピリオドの高校の美術部の顧問の先生のような印象をうけました。
この方は話がとても面白いうえに、知識の幅も量も深度もものすごくて、解説してくれる際にも「ここに来られた○○を専門といている方が仰られていて、私もえーっそうなんですか?ってなったんですけど……」という感じで話されていて、謙虚というか自分も学びの途中ですというスタンスで話してくださるのがとても好印象でした。
こちらはドングリの貯蔵庫。
たいして珍しくもないと思うじゃないですか。
ところがこれ、弥生時代のものらしいんですよね。
弥生時代というのは大陸から稲作が入ってきて始まった時代です.
「あれ、ということは稲作やりながらドングリも集めてたんですか?」
と訊くと、不作の時などのための非常食だっと考えられています。ですが、従来は弥生人が縄文人を駆逐して弥生時代に変わったと考えられていたんですけど、こういったことから近年は縄文人と弥生人はかなり交雑が進んでいて、こういったドングリの貯蔵なんかも縄文人の知恵が弥生人に受け継がれていたことの証拠として考えられているんです。
と、遺伝子検査を使った調査や、どこそこで出土した弥生人の骨の話など具体的な事例をあげて解説をしてくださいました。
ちなみに弥生時代のどんぐり貯蔵庫の遺跡はものすごく貴重らしいです。
こちらは平安時代に日本で作られた焼き物です。
日本には磁器がなく、秀吉が朝鮮出兵を行い、向こうの技術者を連れてくるまで日本では磁器は造れなかったそうなのですが、これらはそれよりずっと前に、日本が中国の磁器である白磁や青磁を再現しようと涙ぐましい努力をした結果生まれた産物だそうです。
こちらはがんばって青磁を作ろうとした結果。
ほとんど青くはなってませんが、少しだけ青みがかってる?
これらは瓦器です。
土師器、須恵器ぐらいしか知らなかったのですが、これらは釉薬が開発されるより前に、土器を焼く仕上げに器に炭を塗りこんだものだそうです。
土師器では水を入れてもしみ込んでしまいますので、何らかのコーティングが必要となってかんがえだされたのでしょう。
器の中心あたりにぐるぐるとして線が入っているのが、炭を塗り込んだ後だそうです。
こちらは井戸枠に使われていた古代船の船体で、寝屋川市にある長保寺遺跡というところで発掘されたものです。
これと同じ形状の物がもう一つあり、二つを合わせて井戸枠としてたそうです。
どちらにも樹脂によるコーティングは施しているそうですが、展示をしているこちらは冷房・暖房も効いた場所に置かれいて保存状態も良いのですが、倉庫にしまい込まれたままの片割れの方は、段々と色が黒ずんできているそうです。
千四百年ほど前に樹齢千年ぐらいの木から作られたそうです。
この大きさの木だから、かなり大きな木ですねというと、「私もそう思ってたんですけど、建築の専門家の方がこられた時に、『年輪にそって脆くなるからそうならないために、この太さよりももっと大きな直径の木から切り出してるはずですよ』と言われたんです」という返事。
言われてみれば、断面に見える年輪は、この円弧の形とはずれた向きになっています。写真では分かりにくいでしょうか。
気温からして杉は昔は日本にしか生えていなかったので、この船の材料も国産だと考えられています、とのこと。
またこの話の流れから、杉の植生なんかの話もしてくださいました。
弥生時代のヒスイの勾玉は十何個かした出土しておらず、そのうちの十何個はどこどこ、一個はどこどこで、どこどこから二個、みたいな解説でした。
つまりこれもかなりの貴重品です。
また、「この形、普通の勾玉とは少し違うでしょう?」と訊かれたので、子持ち勾玉なんですか?と訊くと、いいえ、これは獣型勾玉と呼ばれているものですとの答え。
古い時代の勾玉はこういう形だったそうです。
埴輪ですが、家型埴輪で窓が片側三つのは珍しいと、ここにきたお客さんがいってました、とのことです。普通は窓は二つらしいです。
巫女埴輪と鶏埴輪です。
巫女の頭、全部分修復やん、修復した人のオリジナル作品になってるんちゃうん?と思っていたのですが、同型の埴輪はいくつも出土しているので、それらを参考にしているとのこと。
とまあ、ここに書いた事の他にも色んなことを教えていただきました。
渡来人の秦氏は寝屋川に住んでいた氏族で、京都で治水工事が必要になったときにたくさん人を送っていて、発掘された出土品からもその時に京都の太秦に人が増えて、寝屋川の太秦(寝屋川にも太秦があります)の人が減っているのが分かっている、とか、道鏡の件の立役者である和気清麻呂が上町台地の掘削工事に失敗してその時に出た土砂が天王寺の茶臼山古墳であるとか、長岡京に遷都した桓武天皇の話とか、ずっと聞いていたいような話ばかりでした。
他の場所の史跡や資料館もどこどこにこんな所があるとか教えてくださったり、自分が香芝市にある古墳とか帝塚山大学内にある古墳とかに行った時の話を聞かせてくださったりもして、この人と古墳デートしたいなと強く思いました。いやいっそ付合いたい。というか結婚して欲しい。まあ向こうには何のメリットもないのでムリですが。
この方のお陰で行きたい場所が爆発的に増えたので、しばらくはムリですが、寝屋川市立埋蔵文化財資料館にはもう一度といわず何度でも行きたいなと思います。
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