石宝殿古墳とか

10/22
前へ
/489ページ
次へ
石宝殿古墳について 埋蔵文化財資料館で聴いたお話で興味深いものがあったので覚え書き的に載せておきます。 この古墳の被葬者について、以前に埋蔵文化財資料館を訪れた学者先生(名前も聞いたのですが覚えていません)が仰っていた新説があったそうです。 古墳近くの解説板には葬者(被葬者)不明と書いてありました。 学者先生の新説はこの被葬者についてです。 先生の説ではここには大津皇子(おおつのみこ)が葬られたのではないかというのです。 まずこの古墳の構造について、教えていただいたことを少し書きます。 大きな石をくり抜いて横向きの石室(石槨)にしたものは珍しくて、古墳時代の終わりごろに造られた身分の高い人用の墓であるとのこと。 北河内ではここだけらしく、さらには花崗岩を使った物は非常に珍しい。 859cbbfc-2bd6-49a2-88f3-c13b40e0d3a1 さらに扉の石を受けるためのドア枠と軸受けみたいな加工がされていて、ということは蝶番もあったということです。 こういった古墳はここの他には、奈良の斑鳩(いかるが)の竜田御坊山3号墳石槨と、明日香の鬼の(まないた)・鬼の雪隠(せっちん)などごく少数のみ。 どうでもいいけど、斑鳩って、いかるがとひらがなで書きたくなるのは僕だけでしょうか(いかるが牛乳という牛乳メーカーがある) さらには写真に撮っていた古墳の後ろの石についてもお話がありました。 0fd7ae7f-b34f-42a3-9031-304c1ff1f56e これは、写真では三個しか見えませんが、実際には四個の石が並んでいて、端っこの一個が他の三個とは135度の角度になっているらしく、もしもこれが石室の周りを囲う盛り土を留めるための石だったのなら、古墳自体は八角形をしていた可能性があるとのことです。 八角形の内角ひとつは135度ですね。 で、八角形の古墳、八角墳は道教的思想の影響を受けた七世紀半ば頃からあらわれる古墳で、大王の墓に限られるらしいです。 八角墳については、ウィキから少し引用して載せます。 現在知られている限りでは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳(現舒明天皇陵)、奈良県高市郡明日香村の野口王墓(現天武・持統陵)、一般に文武天皇陵と考えられている奈良県明日香村中尾山古墳、御廟野古墳などが八角形平面の墳丘を持っている。 これらのほかに、奈良県高市郡高取町の束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳(斉明天皇陵か)などが八角形墳の可能性を指摘されている。 7世紀半ば、日本では初めて大王に固有の型式の陵墓が出現したといえる。 引用終わり とりあえず、八角墳はレアかつ天皇家に連なる人のお墓であるということです。 あとは、天武天皇、持統天皇、草壁皇子の名前が出ていることに注目していただきたいです。 悲劇の皇子、大津皇子(おおつのみこ)は有名なお話ですよね。 とはいえ僕はなんかそんな話あったなあという程度の認識で、だいぶ以前に朔さんから大津皇子の詠んだ歌だったか何かの話をふられて「え、知らないの!?」みたいな反応をされたことがありますが。 大津皇子はイケメンで背が高くて頭が良くて腕っぷしも強くて優しくて、皆に慕われる人物だったそうなので、きっといつの世でも女性からの覚えがいいのでしょう。 色々とドラマはあるのですが、ざっくりいうと天武天皇と持統天皇(即位前の名は鸕野讚良(うののさらら))は夫婦。 この二人の間に生まれた子は草壁皇子。 で、天武天皇と持統天皇の姉である大田皇女(おおたのひめみこ)の間にも子供がいて、これが大津皇子。 つまり草壁皇子と大津皇子は異母兄弟です。 で、二人とも天皇候補。 お父さんの天武天皇が亡くなった後、持統天皇が自分の子供の草壁皇子を天皇にするために、大津皇子が謀反を起こそうとしていると濡れ衣を着せて逮捕して、大津皇子は自害(処刑?)します。 ですが草壁皇子はけっきょく皇位に着かないままその三年後に亡くなります。 で、持統天皇自らが天皇に即位。 ちなみに石宝殿古墳のあるあたり(寝屋川市の一部と隣の四条畷市を含む一体)は、昔は讚良郡(ささらぐん)とよばれていて、持統天皇の名前である鸕野讚良(うののさらら)という名の由来にもなっています。 地名を皇族の名に使う場合、その地で生まれ育ったか、そこに領地をもっていたか、その地出身の豪族から乳母が出たためその豪族に養育されたかといったような理由が考えられます。 いずれにせよ持統天皇と関係の深い土地です。 そんな土地に、持統天皇が陥れた人の亡骸を葬るのか? って、こういう話は日本にはけっこうありますね。いわゆる御霊信仰。祀るから祟らないでねというやつです。 ところで、実は大津皇子のお墓は奈良の二上山の山頂にあります。まだ行ったことはないのですが、とても行きたい場所の一つです。 ですが、古墳時代には再葬ということがよく行われたそうです。 さらにこれはただの僕の感想なのですが、石宝殿古墳を見た時、石室(石槨)が小さいなと思っていました。 この中に石棺や木棺を入れるのは中々難しいのではないかと思っていました。 それも再葬なら納得がいきます。再葬される時には、遺体はもう骨になっているからです。蔵骨器のようなもので事が足りるのではないでしょうか。 草壁王子の死を祟りだと考えた持統天皇は、自分が即位する際に、祟りをおさえるために、自分のホームグラウンドに大津皇子を祀り直したと、そういう説なのだと思います。 トンデモ説に近いかもしれませんが、学者先生はこの説を学会発表するつもりだと話していたそうです。 この説が話題になれば、寝屋川市に史跡ブームも来るかもしれず、資料館の予算も増えるかもしれません。 職員さんは「先生、早く発表してくださいよ」と言っていたそうなのですが、残念な事にけっこうなご高齢だった先生は、発表を待たずして天寿を全うしてしまったのでした。 なので、この説も日の目を見ることがないままになってしまいます。 これ、歴史ミステリーとして小説にしたら盗作になるのかな?? 歴史ファンタジーならギリいけるかな??
/489ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加