プロローグ

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プロローグ

「おお! せ、成功か……!?」  聞きなれない中年男性の声で、アニーはのそりと体を起こした。ぼんやりする頭で地面を見ると、何やら怪しげな魔方陣のようなものが描かれている。それを不審に思いながら顔を上げると、目の前には手を取り合った中年男性が二人。アニーは顔を顰めた。 「……どちら様ですか?」  自分から発せられた声に驚いて目を瞠る。凛とした、美しくよく通る声。これは自分の声ではない。思わず喉に手を当てると、滑らかな感触がした。これは、自分の、肌ではない。  戸惑うアニーに、怯えた様子で中年男性の一人が声をかけてきた。 「き、君は、ソフィア……ではない、な?」 「……私は、アニーですが」 「おお! おお! やはり、成功だ!」  中年男性二人がはしゃいでいる。意味がわからない。  混乱しながらも、アニーは眉を顰めて声をかけた。 「説明、していただけますよね?」 ***  大陸の西の端に位置するアミールド国。その更に西の隅にある、小さな町エラマ。オズボーン男爵家の領地である。  目の前の中年男性の内、クラヴァットと上等なベストを身につけた貴族然とした男は、オズボーン男爵家当主、フィリップ・ギビンズと名乗った。つまり、この地の領主である。  もう一人のローブを纏った怪しげな男は、オズボーン男爵家お抱えの占い師だという。彼は、代々魔術師の家系であるそうだ。  そして、彼らいわく。 「私は今、ご令嬢ソフィア様のお体である……と?」  わけがわからない。案内された客間で、アニーは頭を抱えた。その髪の感触がまた絹のような手触りで、アニーはすぐに手を離した。  彼らの話をまとめると。  オズボーン男爵家令嬢、ソフィア・ギビンズ。十七歳になる彼女に、縁談の話が来ているらしい。相手はダグラス伯爵家。貴族の中でも位の低いオズボーン男爵家としては、何としてもこの縁談をものにしたい。  しかし、困ったことにソフィアは大層わがままである。持って生まれた美しい容姿、そして幼くして母親をなくしたことにより、周囲がそれはもう甘やかした。結果、一つ微笑めば誰もが言うことを聞く、傍若無人なお嬢様に育ってしまったようだ。  ところが、ダグラス伯爵家長男エリオットは清廉潔白な人間であり、ソフィアの男遊びで鍛えた手練手管が効くような相手ではない。むしろ嫌われる可能性が高い。  困ったフィリップは、見合いに替え玉を用意しようとした。しかしソフィアほどの美貌を持つ影武者など、そうそう見つかるものではない。  ならば中身だけ替えてしまおう、とフィリップは占い師に相談した。  占いで、領地内にいるソフィアと同年代で、エリオット好みの性格の女性を探し当てる。そして魔術を用いて、その女性の精神とソフィアの精神を入れ替える。  そうすれば、ソフィアの類稀なる美しさと、エリオット好みの性格を併せ持つ女性が出来上がり、縁談を確実にものにできる。  そんな馬鹿な。とは思うものの、実際に見せられれば信じるしかない。アニーは鏡に映る己の姿をまじまじと見た。  絹糸のようなブロンドの髪。透き通るエメラルドの瞳。果実のようにふっくらとした唇。肌はミルクのように真っ白で、一点の曇りもなく指先まで滑らかだ。胸元は弾力がありながら柔らかで十分な質量があり、ウエストは内臓がどこにあるのかと驚くほど細い。女性的な魅力が溢れるこの体なら、どんな男でも虜にできるだろう。 「頼む。報酬は払う。どうか、娘の代わりに見合いをしてくれないだろうか」  領主に頭を下げられれば、平民としては断るわけにはいかない。だとしても、だ。 「私は、一介の町娘に過ぎません。教養もなければ、礼儀作法もままなりません。とても伯爵家のお相手は務まりませんよ」  アニーの家は小さなパン屋を営んでいる。毎日粉にまみれて、汗水流して働いている。令嬢の体になったからといって、すぐに令嬢らしく振る舞えるわけがない。 「最低限のことは、急ぎ家庭教師に教えさせる。申し訳ないが、三日で覚えてくれ」 「三日!?」  アニーは声を上げた。三日など、とてもじゃないが覚えられるわけがない。 「その術は、一週間しかもたないのだ。明日から三日間、君にできるだけのことを詰め込む。そして四日後、伯爵家の方がいらして、三日間かけて見合いが行われる。今日を含めて、これで七日間。それしか時間がとれないのだ」  アニーは絶句した。なんて無茶なスケジュールだろうか。それで失敗したとして、何か責を負わなければならないのだとしたら。  顔を青くしたアニーに、フィリップは取り繕うように言葉を続けた。 「万が一うまくいかなかったとしても、君に罰を下すようなことはしない。ただ、成功すれば褒賞は約束する。必ずだ」  くらくらする頭を押さえて、アニーは考えた。何を言ったところで、既にこの体はソフィアのものだ。平民の自分は、立場も弱い。逆らうことなど。 「……分かりました、お受けします」 「おお! そうか、そうか! 助かる!」  破顔して、フィリップはアニーの手を取った。 「一つ確認しておきたいのですが、入れ替わったということは、ソフィア様は今私の体にいるのですよね」 「おお、そうだ。君の家には、使いを出している。心配はいらん」 「ソフィア様が、平民の体を使うことに、抵抗は?」 「なに、あれは容姿に恵まれすぎたのだ。少しは平民の気持ちと暮らしを学ぶといい」  そういうことは両者の了承を得てやってほしいものだが。その感情は、心の底にしまった。だが、ソフィアには悪いことをした。彼女はおそらくフィリップが想定しているよりも、辛い思いをするだろう。 (だって……私は……)  本来の自分の姿を脳裏に浮かべて、アニーは目を伏せた。 「そうと決まれば、君の従者を紹介しよう。入りたまえ」  フィリップが手を叩くと、女性と男性が一人ずつ客間に入室した。  二人とも、綺麗な所作でお辞儀をして、すっと並んで立った。 「彼女はサラ。ソフィアの身の回りの世話をしている。何かあれば、彼女を頼るといい」  メイド服の女性が、再度礼をする。癖のある赤毛をまとめ上げ、顔にはそばかすがある。眼差しには少し冷たさを感じるが、真面目そうな印象を受ける。歳はソフィアと近そうだ。 「彼はノア。ソフィアの護衛をしている。基本的には常に君の側にいることになる」  タイを締め、ダブルボタンのベストを着た男性が礼をする。褐色の肌に鳶色の髪、同じ色の瞳。異国の血が入っているのだろう。珍しい、と思わずまじまじと見てしまい、視線がかち合って反射的に逸らす。失礼なことをしてしまった、と内心反省した。  それにしても。ちらりと、今度は窺うように視線をやる。  精悍な顔つきをしていて、背はすらりと高い。歳はソフィアより少し上だろう。このあたりの男性にはない、エキゾチックな魅力がある。これは、もしかしてソフィアと良い仲だった可能性があるのでは、などと下世話な推測をした。 「家庭教師は明日の朝から頼んである。今日のところは、今後に備えて十分に休んでくれ」  フィリップはそう言うと、後のことを使用人に託し、部屋を出ていった。 (さて、どうなることやら)  今後一週間のことを思い、アニーは深いため息を吐いた。
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