心臓がいくつあっても

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 当然のごとく、仕事終わりの一杯は格別だった。  また、出てくる料理もどれも想像以上に美味しかった。  微量のアルコールは、あらゆるものの角を削ぎ落とし世界を丸くする。  目に映る食材はどれも色鮮で、店内のざわめきも耳に心地よかった。  ジャケットを脱いでオフの顔を覗かせた黒田さんは会社での姿より2割増しでイイ男にみえた。  仕事内容を熱く語る口調にも普段とは違う姿を垣間見た気がしてドキドキし、緊張のあまりに肩がこった。  シチュエーションによるスパイスが若干効きすぎていたのかもしれない。  普段の半分ほどでお腹いっぱいになり、酔いのまわりも早かった。  慎重になるのは、たぶん本気になりかけてるから。  食事はあっという間に終わる。  感触としては良かったが、正直次に繋がる確固たるもうひと押しが欲しい。  このまま解散すると、ただの仕事終わりの食事会だ。  饒舌だった黒田さんの口数も少なくなり、私を見る目に僅かな温度を感じる。  きっと彼も同じように迷っている。  時間帯はまだ早い。  もう一軒行きたいが、明日もあるのでこれ以上引き止めるのは不自然。  決定打のないまま、帰路の電車に乗り込む。黒田さんも同じ路線らしく一緒に乗るが、車内は混んでおり会話の出来る状況ではなかった。  自宅の最寄り駅に近づくにつれ、少しの焦りと少しの期待に混じって、条件反射のように帰宅後のルーティンも頭をよぎる。 「じゃあ、私次の駅なんで」  アナウンスがなって、私が告げると、黒田さんは「そう」とつふやいて見ていたスマホをポケットに片付けた。  次の言葉はなく、沈黙だけが過ぎる。  カタタンと終了の音がして、電車が駅に到着する。 「今日はありがとうございました。とっても美味しかったです。……それではまた明日」 「おう、明日遅刻するなよ…」  悪くはない。  電車に向かって手を降ったのは、私なりにかわいい仕草だったと思う。
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