巨象に刃向かう者たち 第一話

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

巨象に刃向かう者たち 第一話

 インターネット黎明期、多くのライターに夢を与えた、とある管理人へのオマージュ ――2007年10月22日、米国ニューヨーク(New York)市で、市当局が全タクシー車両に対して、GPS(全地球測位システム)端末を10月以降、順次搭載するよう義務付けたことに対して、タクシー運転手らが抗議し、48時間にも及ぶストライキに突入した。同日以降、営業を続けているのは、全登録台数1万3000台のうち約一割だけだという。 一方、競合する労働組合で、ストライキを支持しないタクシー運転手連盟もあり、彼らの組合では、約八割の運転手が営業を続けるという。ストライキの影響で市内の交通量は通常よりもかなり少なく、市民は仕方なしに地下鉄を利用したり、なんとか営業を続けている普段とはまるで違う高級タクシーに分乗したりして、この事態に対処するしかなかった。 同市では、開催中の全米オープン・テニス2007が終盤戦を迎えているほか、2008年春夏コレクションが発表されるファッションウィーク(Fashion Week)が始まっていたため、市民の混乱は相当なものだった。私自身も、たった数百メートル乗っただけで、20ドル以上も請求され、少しは腹も立った。ただ、労働者たちのこの反抗に対して、素直に「カッコイイ!」と思った。彼らはこの国を動かそうとしている。それは、自分にはできもしないことだったからだ。  説得屋――とにかく客が来ない。あと一日、いや、あと数十分でも、市民から無視され続けたなら、私は餓死するかもしれない。ネット料金、電気ガス、ミルクの配給が順序よく、まるで、ゴビ砂漠で干された小鹿が徐々に白骨化していくように整然と止められていった。これでは身動きがとれない。仕方なく、市当局に連絡を入れる。こんな言葉が返ってきた。「あなたが、そのすべての料金を支払っていないためである。だが、安心してほしい。我々は水道だけは止めたりはしない。これは命にかかわる問題だからだ」だが、つい昨晩、うちの水道の蛇口から水は出なくなった。別に喉の渇きで命を落とすとも思わなかった。飢えや渇きで亡くなる人のそれは、「こんなに苦しい思いを長いこと継続したのちに死にたくはない」という恐怖や失望からくるのであり、堪えられる人、さして意に介さない人には負担にすらならない。怒りや不安や悲しみや哀れみといった感情はすでにないし、目は霞んできた。しかし、あれから数十秒が経った今も客は来ていないし、おそらく、明日になっても誰も訪ねては来ないだろう。古来から、商売の先行きは常に不透明だが、この都市において、自分の店がなぜ敗れたのか、その理由がまったく分からない。親切な誰かが教えてくれるのなら、数万ドル払ってでも知りたい。そんなお金はどこにもないが。ただ、悪魔に心を売ってそれを手に入れることは可能だろう。  正直、辺りをうろつく自称エリートメンに比べれば、自分の思考力はずいぶんマシだと思う。大手新聞のほとんどの記事には目を通している。無駄な知識も豊富にある。時折、ストレス発散のために苦情のメールを何通か送り付けてやったりもする。「あなたの整理部では、こんなに偏った記事を書いてしまってますが、本当に責任を持って書いてるんでしょうね?」とかって。いい大学を出ていてもよいくらいの理解力や記憶力はあったと思う。残念ながら、結果はついてこなかったが。学業を終えても、世間の不況に言い訳を探して、長いことあちこちを遊び歩いた。こんな酷い世の中もいつかは好転すると思っていた。気楽ではあったが、大した理由もないのに、友人は少しずつ消えていった。アルバイトを掛け持ちして生き延びようとしたり、サンドウィッチマンにまで応募をしたり、予期せぬ病気であっさりと死んでみたり、皆それぞれだった。残ったのは自分とまったく同じ性質(たち)の人間ばかりだった。皆、面倒くさがりで、とにかく楽な方へ楽な方へと自分を導きつつ、成功への近道を探そうとする。学歴は比較的まともでも言葉づかいが悪く、とにかく理屈っぽい。他人に気を使うことができず、誰にでも当たり散らして、ギャンブルにハマるとなかなか抜け出せず、犯罪歴があり、相手を思いやる気持ちがないので、まともな恋愛はできない。ほとんど会話をしたこともない人間に対して「なあ、頼むよ、ろくに働いてもいないから腹が減ってんだよ。10ドルでいいから恵んでくれ」と平気でいえる。この自分にしても、三十を過ぎても、ろくな経歴をもっていないことにある日突然気がついた。背筋が少し冷えてきた。一般に、できるだけ楽な道を探そうとして転がり落ちてきた人生は、自身により困難な課題を課すことで解決を図る場合が多い。例えば、高レベルで難関な資格をとる、腕のいい職人に弟子入りをして下積みからやり直す、社会に通用する技術を手に入れるべく大学や専門学校に入り直す、などである。安っぽいドキュメンタリーでよく見る。しかし、一度完全に叩き伏せられながら、もっと楽な道を探そうと地獄の窯の底をさらに掘りに行こうとするような救えない落伍者も稀にいる。私がそれである。  去年の夏頃から、ダラダラとした生活に終止符を打ち、再び成功への扉をノックしたいと思うようになった。最近の潮流をみると起業が儲かるということなので自分で店を持とうと決めた。そのうちに、他人はなるべく避けたがり、自分だけがなし得る作業が一番儲かるのではないかと考えるようになった。――説得屋、なかなか、いいネーミングだ。私は他人のろくでもない話を長々と聞くのが割合好きだし、向こうが望むのなら、相手の選択に対して何とはなしの同意をすることくらいはしてもいいと思う。ただ、こちらからの提案や立案に関しては、しない方がいいだろう。こんな安い話し相手に相談をぶつけてくるような案件はすでに相当に入り組んでいて解決が困難に陥っていることが多い。YESかNOだけでは、とても応じきれない。相手の人生に対して下手に口を突っ込むことは、後で回り回って自分の首を絞めかねない。こちらが示した提案が誤っていて顧客の人生が狂ってしまっても、責任など取りたくないし、絶対に取らない。向こうが捨て鉢になって、犯罪に走っても、自殺に追い込まれてしまっても、こちらに火の粉が及ぶ可能性はあるし、下手をすると自分の首がナイフで刺されるケースに発展してしまうかもしれない。そういうわけで、依頼の解決については、なるべく、相手の意志を尊重しながらも、何度となく、曖昧な同意を繰り返していく、という方針でいこうと思う。どんな金銭的な成功も、まずは、自分が健康でいなければ訪れないのである。  しかし、最大の関門はすぐに訪れる。もちろん、事業を始める準備金がまったくない、ということについてである。幸いなことに、私の仕事には無能な自分以外にスタッフはほとんど必要ないし、専属の調理人も弁護士も美人秘書も宮廷画家も、今のところは必要はない。これらが必要になるのは、大鷹が青空に向かって綺麗に飛び立った後である。午後になってすぐ、ミレー伯母のことを思い出す。親類では唯一、自分に大金を貸してくれた経験をもつ。二度あることは三度ある……、のかもしれないが、この良縁が死地に向かうきっかけになっちまうのかもしれない。とりあえず、彼女の声を聴いて、その瞬間にプラスかマイナスの空気を感じた上で、賢明だと思える判断を下せばいい。 「なんで、こんなに長いこと、連絡をくれなかったんだね。長い間、離れ離れにした私への当てつけかね? でも、思い直してくれたのなら、大したもんだよ。もちろん、今でもおまえを愛しているよ。そんなこと、尋ねられるまでもないだろう。都会のせわしない生活の中で、もし、息苦しく感じてきたらさ、いつでも、この家に戻っておいで。さあ、できるなら、明朝一番の電車でも……」  そんな甘ったるい言葉で諭さとされたら、自分はこの世界一価値のある都みやこを捨てて、故郷ふるさとに逃げ戻ってしまうかもしれない。率直にいって、この人生にはもう勝ち目はないが、こんな自分を許してくれる人が、まだ、この世にいることを考えているだけでも、思わず涙してしまうことだろう。郷里の叔母の元に帰れば、電気もガスも水道も普通に使える暮らしができるわけだ。幸福で自由な生活において、これから先の長い時間を過ごせるようになるかもしれない。試験にも、資格にも、他人との激しい競争にも悩まされることなく、成功者への道を歩んでいけるかもしれない。二十余年もの間、努力を続けたにも関わらず、未だにつるはしを握って働いている奴らからは、きっと、えらく羨ましがられるだろう。しかし、その選択を取ることはできない。真に尊敬されるべき男とは、安定を目指してはならないからだ。自己の運命の刃先を鋭く研いでいくことにより、常に成功か敗北かの世界に身を置いて戦わねばならないのだ。でなければ、本当の勝者になどには、なり得ない。銀メダルで満足することなど、自分には許されないのだ。男はいつか大空を高く舞う鷹にならねばならない。中途半端な人生は歴史家たちに一番忌み嫌われる。選ばれるのはGodかDeadだ。昔は優しく健康的であった叔母さんも今は七十八歳。その記憶は昨晩のニュースのネタから身近なことに至るまで相当に薄れてきている。愚にもつかぬ独り言が多くなったし、何かを伝えようにも喉はいつもガラガラと唸っているし、自慢の杖も役に立たないほど、足腰もすっかり弱っている。あれでは、久しぶりの挨拶に訪れた旧知の友人と、わざわざ迎えに来てくれた死に神との区別もつかなくなるだろう。連れ合いも三年ほど前にすでに他界している。彼女自身もあと何年も生きられるわけではない。あと一年のうちに、悪い方かより悪い方への決着がつくとみるのが無難だろう。木乃伊ともすぐにお友達になれそうな人間に、貯蓄のあり余る安閑とした暮らしなど果たして必要なのだろうか。その中途半端な額の遺産は、彼女の半生における社会への貢献具合をある程度は示すものだが、そのうち、何割かは叔母の死後にこの私の懐中に入ってくる。今回の交渉の目的は、その引き渡しを若干早めるだけのことである。この思惑に対して罪悪感など必要ないし、世間からの表彰があるのなら、それさえ甘んじて受けたいくらいだ。  お金(特にドル)というのは、いい笑顔を持っている。ただ、それはミント状態のナポレオン金貨も、道端に捨てられている一フラン紙幣も平安時代の古銭も、皆同じ顔をしている。それを手にする人をほくそ笑ませて、自分も一緒に笑おうとする。その点については差異を見分けることは難しい。人を幸福へと誘う笑みと彼の才能の将来への期待を願う笑みの両方を持ち合わせているわけだ。それこそが天使と悪の二層であると、表現する人もいるくらいだ。富豪にも、鍛治職人にも、年金生活者にも、煙突掃除人にも、同じような表情を見せてくれる。お札を手に取るすべての人が、どちらかの表情に騙されてしまう。ただ、財布の中に閉じ込めておくだけでは彼女は笑ってくれない。彼女をより良い高く見栄えのする場所まで旅立たせるための、有効な手段を考えてやると、より喜んでくれるのだ。あと数年でこの世を去るべき運命を背負わされた人よりも、この私のそばにやってきて、もっと、活躍したいとそう願っているに違いない。札束を抱いて地獄からの脱出に成功し、歓喜する私をあの世からみて、叔母さんも喜んでくれるに決まっている。この健全な取引によって、この完全なる約束によって、機嫌を悪くする人や、損をする人間は果たしているのだろうか? 誰も悲しまない、誰も落ち込まない、誰もグズらない。可愛い甥が多額の現金を手にして、こんなにも喜んでやるのだから……。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!