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「……首、隠さなくていいぞ」 「いや、別に隠してるんじゃなくて蚊に喰われて痒いだけだし」 「あ、そう」 「うん、そうそう」 「……」 「……」  気まずさが半端じゃない。折本は座って机に肘をついて、ぼぉっとしていた。おもむろに出した煙草に火をつける。朝起きて顔も洗わずに煙草だ。動揺してる。 「あのさ……ずっと言おうと思って、言えなかったんだけど」  折本が口を開く。酒焼けのせいか、いつもより声がカサついていた。 折本が言おうとしていた話など、検討もつかずにどぎまぎする。せめていい話であってほしかった。昨日、散々お互いが言った甘い言葉の羅列を思い出し、緊張に唾を飲み込む。  ふーっと煙を吐き出した折本が、視線を彷徨わせた末に俺を見た。 「人事異動の辞令くらって、引っ越さないといけない」 「…………は?」  なんで、今言うんだよ。知らねぇよ。 折本が俺から目を逸らし、ぎこちない仕草で灰を落とした。ちら、と俺を窺って口元を歪める。なにそれ、笑ってんの? 俺は全然笑えない。 「元は俺の予定じゃなかったんだけど、まぁいろいろあって……でも、ちょうどよかったかな。お前も転職先見つかったんなら」 「ちょ、ちょっと待って」  よくないよくない。強制的にこのルームシェアが終わるのか? なんでそんな平然と投げやりに言えるんだよ。もっと早く言えよ。そしたら俺だって昨日、あんな馬鹿みたいな嘘は吐かなかった。 それに折本だって、あんなに俺に出ていくなって言っただろ。それを聞いて安心していた自分が馬鹿みたいだ。もしかして忘れてんの? そりゃいつもは忘れてるよね。でも今日は、覚えてるんだろう? 「引っ越すって、それいつの話」 「まだ猶予はあるけど」 「猶予って」 「二か月くらい?」 「すぐじゃん……」 「真崎は? いつから働くんだよ」 「どうでもいい」 「どうでもいいって、お前」 「俺もっ!」  引っ越すとなったら、この家だって契約の変更なりいろいろすることになる。そんなに大事なことをどうして黙っていた? 「俺も言えなかったこと、あるんだけど」  苛立つのは自分勝手か、それとも俺も少しくらい怒ってもいいのだろうか。俺も馬鹿だったけど、折本も馬鹿だろ。なんで昨日の記憶だけ残ってるんだよ。どうせ覚えているのなら全部思い出せよ。昨日のことを覚えていて、何もなしなのか? 俺に何か言うことねえのか?  ちら、と折本が俺を見上げた。隙あらば俺を揶揄うのが常なのに、今日は妙にしんみりとした顔をしてやがる。そんな折本の目の前に来ると、シャツを脱ぎ捨てた。  素肌に転々とした赤い痕。昨日の折本はやけに甘かった。いつもは歯型が残っているのに、今日に限ってそれがない。小さく舌打ちをした。 「お前、覚えてんだよな」 「…………身体……辛かったら、ごめん」  す、と視線を横に流して、ぼそりと呟く。俺の目くらい見ろ。つい声を荒げそうになって息をゆっくりと吐きだす。 「いや、別に? お前、昨日は異様に優しかったからな」  刺がある言い方だ。一人になるって、焦ってやんの。 「昨日は……?」  折本がぴくり、と動いて怪訝な顔を向ける。ハッと笑った。乾いた声が嫌味に響く。俺ってこんなに嫌な奴だっけ。 「思い出せよ。昨日がハジメテだとでも思ってんの?」 「…………は?」 「なぁ、颯くん。俺が今まで、何回、お前に抱かれてきたと思ってんの?」  怪訝な顔をしていた折本が、俺を見上げて目を見開いた。本当に、ちゃんと忘れてるんだ。アホみてぇ。 「お前さぁ、酒飲んで記憶なくなること、あるっしょ。帰省本能で帰って来てるからか、ベッドで寝てるからか、折本は疑問に思ったこともないみたいだけど」  折本が呆けたように口を開く。やっぱり思い当たる節はあるみたいだ。なんなんだよ、これ。築かれたものが一瞬で倒れていくみたいだ。 「あのくらい酔って帰るとお前、俺のこと抱くんだよ。まーじでびっくりした。女と間違えてんのかなって」  そのわりには好きだ愛してるだ、煽るように笑って言ってくるんだけどね。  折本を窺えば、青ざめた顔色で口元をひきつらせていた。そういえば、そんな顔をさせたことは一度もなかったな。怒鳴らせるくらい怒らせたことはあったのに。 「……」 「……」  着地点を失った会話とも呼べないそれが沈黙で終わる。 俺は一体、何を求めていたのだろう。こんなん聞かされたって、そりゃどう反応したらいいか分からない。  自分の考えが浅はかだっただけだ。俺が自分のことしか考えていないからこうなる。カッとなって言いたいことだけ言って満足して。  俺は今まで散々折本に迷惑をかけてきたのだ。俺にかけられた甘い言葉を忘れられたからといって、そのくらい甘んじて受け入れないとフェアじゃない。だというのに突っかかっているのだ。ダサすぎる。  ふいに、折本が立ちあがった。俺とは目を合わせることなく、すっと歩き出す。朝なのに、まだ朝食も食べていないのに、今日はいつもの気だるげな様子でない。 「…………わるい」  すれ違いざまにぼそりと呟くと、折本は背を向けて出て行った。  パタンと扉が閉まり、俺も力が抜けたように椅子に座った。床に落ちたシャツをもう一度着て、テレビのリモコンを取る。電源をつければちょうど天気予報のタイミングだった。キャスターの能天気な声が耳に入る。  もう七時半じゃん。折本、仕事間に合うかな。平日なのに馬鹿みたいに酒飲ませちゃった。やっぱり俺は自分のことしか考えていない。  玄関の扉が開き、折本が出ていく音が聞こえた。 「…………完全にミスった」  最悪。
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