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#3
「……首、隠さなくていいぞ」
「いや、別に隠してるんじゃなくて蚊に喰われて痒いだけだし」
「あ、そう」
「うん、そうそう」
「……」
「……」
気まずさが半端じゃない。折本は座って机に肘をついて、ぼぉっとしていた。おもむろに出した煙草に火をつける。朝起きて顔も洗わずに煙草だ。動揺してる。
「あのさ……ずっと言おうと思って、言えなかったんだけど」
折本が口を開く。酒焼けのせいか、いつもより声がカサついていた。
折本が言おうとしていた話など、検討もつかずにどぎまぎする。せめていい話であってほしかった。昨日、散々お互いが言った甘い言葉の羅列を思い出し、緊張に唾を飲み込む。
ふーっと煙を吐き出した折本が、視線を彷徨わせた末に俺を見た。
「人事異動の辞令くらって、引っ越さないといけない」
「…………は?」
なんで、今言うんだよ。知らねぇよ。
折本が俺から目を逸らし、ぎこちない仕草で灰を落とした。ちら、と俺を窺って口元を歪める。なにそれ、笑ってんの? 俺は全然笑えない。
「元は俺の予定じゃなかったんだけど、まぁいろいろあって……でも、ちょうどよかったかな。お前も転職先見つかったんなら」
「ちょ、ちょっと待って」
よくないよくない。強制的にこのルームシェアが終わるのか? なんでそんな平然と投げやりに言えるんだよ。もっと早く言えよ。そしたら俺だって昨日、あんな馬鹿みたいな嘘は吐かなかった。
それに折本だって、あんなに俺に出ていくなって言っただろ。それを聞いて安心していた自分が馬鹿みたいだ。もしかして忘れてんの? そりゃいつもは忘れてるよね。でも今日は、覚えてるんだろう?
「引っ越すって、それいつの話」
「まだ猶予はあるけど」
「猶予って」
「二か月くらい?」
「すぐじゃん……」
「真崎は? いつから働くんだよ」
「どうでもいい」
「どうでもいいって、お前」
「俺もっ!」
引っ越すとなったら、この家だって契約の変更なりいろいろすることになる。そんなに大事なことをどうして黙っていた?
「俺も言えなかったこと、あるんだけど」
苛立つのは自分勝手か、それとも俺も少しくらい怒ってもいいのだろうか。俺も馬鹿だったけど、折本も馬鹿だろ。なんで昨日の記憶だけ残ってるんだよ。どうせ覚えているのなら全部思い出せよ。昨日のことを覚えていて、何もなしなのか? 俺に何か言うことねえのか?
ちら、と折本が俺を見上げた。隙あらば俺を揶揄うのが常なのに、今日は妙にしんみりとした顔をしてやがる。そんな折本の目の前に来ると、シャツを脱ぎ捨てた。
素肌に転々とした赤い痕。昨日の折本はやけに甘かった。いつもは歯型が残っているのに、今日に限ってそれがない。小さく舌打ちをした。
「お前、覚えてんだよな」
「…………身体……辛かったら、ごめん」
す、と視線を横に流して、ぼそりと呟く。俺の目くらい見ろ。つい声を荒げそうになって息をゆっくりと吐きだす。
「いや、別に? お前、昨日は異様に優しかったからな」
刺がある言い方だ。一人になるって、焦ってやんの。
「昨日は……?」
折本がぴくり、と動いて怪訝な顔を向ける。ハッと笑った。乾いた声が嫌味に響く。俺ってこんなに嫌な奴だっけ。
「思い出せよ。昨日がハジメテだとでも思ってんの?」
「…………は?」
「なぁ、颯くん。俺が今まで、何回、お前に抱かれてきたと思ってんの?」
怪訝な顔をしていた折本が、俺を見上げて目を見開いた。本当に、ちゃんと忘れてるんだ。アホみてぇ。
「お前さぁ、酒飲んで記憶なくなること、あるっしょ。帰省本能で帰って来てるからか、ベッドで寝てるからか、折本は疑問に思ったこともないみたいだけど」
折本が呆けたように口を開く。やっぱり思い当たる節はあるみたいだ。なんなんだよ、これ。築かれたものが一瞬で倒れていくみたいだ。
「あのくらい酔って帰るとお前、俺のこと抱くんだよ。まーじでびっくりした。女と間違えてんのかなって」
そのわりには好きだ愛してるだ、煽るように笑って言ってくるんだけどね。
折本を窺えば、青ざめた顔色で口元をひきつらせていた。そういえば、そんな顔をさせたことは一度もなかったな。怒鳴らせるくらい怒らせたことはあったのに。
「……」
「……」
着地点を失った会話とも呼べないそれが沈黙で終わる。
俺は一体、何を求めていたのだろう。こんなん聞かされたって、そりゃどう反応したらいいか分からない。
自分の考えが浅はかだっただけだ。俺が自分のことしか考えていないからこうなる。カッとなって言いたいことだけ言って満足して。
俺は今まで散々折本に迷惑をかけてきたのだ。俺にかけられた甘い言葉を忘れられたからといって、そのくらい甘んじて受け入れないとフェアじゃない。だというのに突っかかっているのだ。ダサすぎる。
ふいに、折本が立ちあがった。俺とは目を合わせることなく、すっと歩き出す。朝なのに、まだ朝食も食べていないのに、今日はいつもの気だるげな様子でない。
「…………わるい」
すれ違いざまにぼそりと呟くと、折本は背を向けて出て行った。
パタンと扉が閉まり、俺も力が抜けたように椅子に座った。床に落ちたシャツをもう一度着て、テレビのリモコンを取る。電源をつければちょうど天気予報のタイミングだった。キャスターの能天気な声が耳に入る。
もう七時半じゃん。折本、仕事間に合うかな。平日なのに馬鹿みたいに酒飲ませちゃった。やっぱり俺は自分のことしか考えていない。
玄関の扉が開き、折本が出ていく音が聞こえた。
「…………完全にミスった」
最悪。
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