#3

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 沢田と入った居酒屋は、いつだったか折本と来た焼き鳥屋だった。沢田がテーブルに並んだ焼き鳥と枝豆をつまみながらビールを煽る。俺はあまり食欲もなく、ちびちびとビールを飲んでいた。 「というか、そもそもなんで真崎くんは折本とルームシェアしてるの? あいつけっこう共同生活とか苦手なタイプじゃない?」 「そりゃね。あんなヤリチンとルームシェアとか、俺じゃなかったら無理でしょ。俺は存在を限りなく空気にできるんで」  沢田の視線から逃れるように枝豆に手を伸ばす。ようやく口に入れた固形物を喉に流し込むのがやはり億劫だった。 「絶賛ニートなんだっけ?」 「なぜ知ってる」  思わず沢田を見れば、にこりと笑って肩を竦めるだけだった。しばらく、お互い何かを探るような目つきでじっと見つめ合う。というよりもメンチの切り合いに近いものがあった。先に折れたのは俺だった。  完全に自分が優位に立っていると自覚しているような沢田の目つき。怒鳴られて怯えることも、土下座を強要されたこともないんだろう。じわり、と手のひらに汗がにじむ。 「やめたんだよ、仕事」 「ちゃんと働いてたんだ」 「まあね」  会社を辞める気なんてさらさらなかった。 「アイツのせいだよ」  実害が出てしまったのだ。  就活生時代、面倒な適正検査で全てにおいて中間値を叩きだしていた俺も、ある一つの項目だけは飛びぬけていた。ストレス耐性である。  そんな脅威のストレス耐性が買われ無事ブラック企業へ入社。カンストしたストレス耐性もバグを起こすほどのノンストップ業務。休日なんてものはなく、眠りにつける心の余裕もない。もはや地獄のノーワークノーライフ。  そんな状態だったから、仕方のないことだと思う。 「弱ってる時にかけられる甘言って劇薬なんだよ」  俺を駄目にしたのは紛れもなく折本だ。  それまでどうにかやって来れていたのに。ほんのちょっと他人に気を遣われただけで崩れてしまった。  泥のような日々を思い出す。朝起きて会社に行く。怒鳴られ、罵倒され、怯える毎日。時に手を上げられている同僚から目を逸らして、俺には関係ないって必死に言い聞かせた。暗くなったスーパーを横目に終電で帰ってはカップ麺を食らう。白んでゆく空に絶望しながら目を瞑って、今日こそ死のう、と幾度となく決意した。  次第にタイピングができなくなった。パソコンを前にすると手が震えてしょうがなくなった。当然怒鳴られる。でも、そしたら頭の中で声がする。折本が優しく囁くのだ。甘く、優しく背を撫でる。  折本のせいで俺は可哀想な人になった。折本のせいで俺は悲劇のヒロインになった。 「だからさ、滅多なことで同情なんてするもんじゃないよ」  脳の奥底から蘇ってきた嫌な思い出を忘れるように、奢りのビールをぐいっと煽る。沢田は形の整った眉を寄せて神妙な顔で唸っていた。 「同情はその人の最後の砦を奪う行為だ」  辛うじて支えにしていたプライドをぽきりと折ってしまう。それがろくでもないプライドだと、本心では分かっていたとしても、自分の力ではどうしても捨てられなかった。 「でも、真崎くんは折本に救われたわけだ」 「無職になるのと引き換えにね」 「嫌味に言うねぇ。同情されたこと、根に持ってるの?」 「違うよ。感謝してる」  ただ。 「……」  唇を噛んだ。唾液を飲み込み息を吐きだす。ただ息を吐き出しただけだったのに、重い溜息に変わってしまった。 「折本は気づいてないんだよ。俺の砦が折本にすり替わっただけだって」  折本がいなければ生きていけない。そんなどうしようもない人間を作り出しておきながら、俺に言ったどんな言葉すらなかったことにするのだろうか。いい度胸じゃん。  墓場まで持って行くような秘密でもなく、いつかは言ってやるつもりだった。いつかは突きつけてやるつもりだった。折本の好きも愛してるも、俺は全部欲しかったから。翌日には消えてなくなる言葉を実体の持ったものにしたかった。 「それはまた厄介だねぇ」  親しみを感じる小さな笑いと共に沢田が言う。他人事だからって余裕だ。気の抜けた沢田を見て、俺も小さく笑った。 「ほんとにね。これほど厄介なことってある? でも、このままじゃ駄目だとは思うんだよ。いつまでも折本におんぶに抱っこで、折本の人生に寄生してさ」  せめてハウスキーパーのように給料でももらっているのならいい。でも、俺は今、完全に折本に許容されることで生きているのだ。  結露したグラスの表面に水滴が流れていく。半端に残ったビールの金色に目を落とした。沢田は急に大人しくなり、茶々を入れることもなく黙っていた。束の間、沈黙が落ちる。 「駄目なんだよ。いい加減、社会と繋がらないと」  ぽつん、と呟いた声は擦り切れたようにくたびれていた。  今、俺の世界は折本颯ただ一人で成り立っている。世界は個人じゃ成り立たない。社会が折本に帰属してるわけじゃない。そんなこと、分かっている。 「もういい年なのにね。だって俺たちもう二十六なんだよ?」 「俺はまだ二十五だけど」 「知らねえよ、お前の歳なんざ」 「理不尽~」 「今とか結婚ラッシュだし。折本が結婚しないなんて言いきれる?」 「どうだろうね~俺には想像つかないや」  沢田が困ったように苦笑した。整った顔立ちはどんな表情でも様になっている。溜息を吐きだしてぬるいビールを口に含んだ。ろくにものを食べていないせいで、酔いが回るのがやたら早い。難しいことなど考えられなくなっている頭をぐしゃりとかき回す。  机に肘をつけば、重さに耐えられなくなったように突っ伏してしまった。机の下で足がぶつかる。沢田が俺をちらりと見下ろして、下手な笑い方をした。机に広がった俺の髪が皿につかないようにすいてくれる。頭に男の節ばった指が触れる感触がした。 「結婚しなかったにしてもさ、こんなルームシェアなんて若いうちしかできねーじゃん。あいつが結婚したら俺だって流石に出ていくし、今みたいに異動で引っ越すってなっても……だから駄目になる前に慣らしとかないと。だって辛いじゃん。急に一人ぼっちになるなんて」 「うん」 「だから、就活始めたんだよね」 「偉いじゃん」 「うん……でも、うまくいかなくって」 「あれ、そうなの?」  どこにも属さない自分の覚束なさ、曖昧さ。存在を否定されたわけでもないのに、全てのものに置いて行かれたような不安感。自分に対する嫌悪感で、人の言葉を素直に受け取れない。
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