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「……っ」 「え、ちょ」  泣いてる。東條くんが泣いてる。ぽろぽろと落ちていく雫が微動だにしない東條くんの頬を濡らしていく。 「え!? うそ、ごめん! お腹痛い? 酔っちゃった? 気持ち悪い?」  慌てて東條くんに駆け寄ってハンカチを取り出した。ちゃんと畳んでいなかったから皺だらけで申し訳ない。はらはらと涙を流す東條くんは俯いてしまって、俺の差し出したハンカチなど受け取る気配がなかった。どうしたらいいのか分からなくて、その場でおろおろとしていたら、東條くんが小さくしゃくり上げる。 「ご、ごめん! 嫌な話しちゃったね」  ふるふると首を横に振った東條くんがは、と息を吐き出した。柔らかいテノールが空気を震わし、心地よい響きが耳に入る。 「先輩……やっぱり俺のこと、覚えてないんですね」  初めて聞いた東條くんの声は、穏やかな何かに包まれるような不思議な感覚を持っていた。もう何時間も声を出していないのだろうとは考えられないくらいに、いい声。 そんな声で絶望したようにぽつりと呟くのだ。無口の東條くんが喋った衝撃よりも、泣かせてしまった動揺が勝った。 「え、え、うそ。会ったことあったっけ?」 「…………うん」  うん。たった一言だというのにすっぽりと頭がぬるま湯に包まれたような気分になる。  この感覚に覚えがあった。どこだっけ。どこでこの声を聞いたっけ。なんだかすごく懐かしいような、安心するような。震えが止まらなくなるような。 「ちょっと待って! もうちょっとで思い出せるから!」  あの子だよ。そう、あの子。あの子なのは分かってる。いや、あの子って誰だ?  ものすごく覚えがある。この声だけは覚えている。 「あー……えーっと」  折本以外の人間と会わなすぎたからか、俺の脳みその容量はどんどん小さくなっているようだ。一向に思い出せない俺に、東條くんが悲し気に唇を噛む。 「いいです。いいんです。無理に思い出してほしいわけじゃないんです。先輩もきっと思い出したくないんだろうから」  顔を上げて俺と目を合わせると、東條くんは眉を下げてほほ笑んだ。全然嬉しそうでも楽しそうでもない笑顔。長身で手足の長い東條くんは、その図体に似合わず子犬のようで、どうにも庇護欲が湧いてしまう。こんな顔をされたら何が何でも思い出さねばという気持ちになってしまう。  その時、何気ない仕草で眼鏡を上げた東條くんの左手が目に入った。その左手には指が二本、足りない。小指と薬指のない少し歪な三本指。  脳の回路が一気に繋がった。 「っ、東條! お前東條か‼︎」  思わず東條くんの肩を力任せに掴んだ。びくりと震えたのが分かって慌てて力を緩める。  二年前、ほぼ二十四時間、俺の隣にいた男だ。  というと語弊があるかもしれない。前に勤めていた会社で隣のデスクだった後輩。当時はまだ新入社員だった。 「お前……生きてたのか」 「見ての通りですけど」 「まだあそこに」 「やめました」  ホッと息を吐きだした俺を見て、東條くんが控えめに笑う。昔はこんなにもっさりしていなかったように思う。座ってばかりだったから、こんなに上背があることすら覚えていなかった。  「悪い、思い出せなくて……俺、あそこにいた時の記憶ほんとすっぽ抜けちゃってて。マジで二年間の記憶飛んでんだよね」 「いいですよ。思い出さないほうがいいです」 そう思わせる会社なんて、よっぽどのものだったんだな。そんなことすら自力で気づくことができなかったのだから、俺も相当狂っていたのだろう。  東條くんの頬はいまだに濡れて光っている。手に持ったままだったハンカチでごしごしと東條くんの顔を拭っていれば、ふいに背中に腕が回された。 「う、わ……え?」  ぎゅう、と東條くんが俺にしがみついている。でかい男の温もりに包まれて、馴れない匂いがした。ごそ、と俺を抱きしめたまま身じろぎした東條くんが鼻をすする。 「先輩が元気そうで、本当によかったです」 「う、うん。元気……」 「先輩、あの時、俺のこと庇ってくれたじゃないですか」  いつのことを言っているのか、言われなくても分かった。いつものパワハラ。事故で失くした東條くんの左指を揶揄った上司に、あの日の俺はブちぎれた。仕事をやめても折本がいる。その後ろ盾のせいで、俺はあの日、あの時だけは最強だった。 「先輩はあんなに俺のことを助けてくれていたのに、俺は先輩に何もしてあげられなかったんだなって、すごい思って……」  俺を抱きしめる腕の強さから、言葉を詰まらせる様子から、東條くんの純粋な思いが痛いくらいに伝わってきた。こんなにも、俺はこの子に何かをしてやれていたのか。  嬉しい、誇らしいと思うよりも、いたたまれなさを感じてしまった。 「どうしてるのかな、元気にしてるのかなって、ずっと思ってました」 事実は期待を裏切るニートだ。俺だけが一向に前に進めていない。 「なんか、ごめんね。俺、こんなで……」 「俺は別に、先輩が元気でいるなら、いいんです」  もぞ、と東條くんが俺の首筋に頭を押し付ける。どうすればいいのか分からず、とりあえずそのふわふわした頭を撫でておいた。  人通りの少ない夜中とはいえ、路上で男二人がぴったりとくっついているのも、あまり見れたもんじゃない。東條くんの背中を強めに叩いて離れようと顔を上げた。  ちょうど、頭上で歩道の青信号が点滅した。ちかちかと照らされた後、赤く染まった視界の中で、横断歩道の向かい側にいた男とまっすぐに目が合う。俺を見て目を見開いた。
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