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「っ‼︎」  なんで、いるんだよ。  沢田が言った、「そろそろ折本も帰ってくるよ」という言葉が蘇る。だからって、なんで今なんだよ。なんで、こんな時間に歩いてんだよ。  あっ、と声を上げて東條くんを引きはがす。びっくりしたように東條くんが背筋を伸ばして、慌てて俺から離れた。 「ご、ごめんなさい。つい……俺、ずっと先輩に御礼が言いたくて。俺のこと覚えてないのはショックだったけど、でも、先輩が元気なの見て安心して、嬉しくて……」  つりがりな猫目をカッと見開いていた折本が、目をぎゅっと細めた。車が来る気配はない。折本は赤信号を無視して横断歩道を渡ってくる。大股で、自分の歩く道こそが世界の中心みたいに堂々として、悠然として。いっそ腹が立つ。  苛立ちと動揺と安心で、顔が歪むのを感じた。東條くんが喋っているのも無視をして、俺は怒鳴っていた。 「っ、ざっけんなよ折本!」  びくり、と東條くんの肩が跳ねた。ごめん、東條くん。情緒不安定な人間の相手をさせてしまって。東條くんにはセクハラするわモラハラするわ、こんなにも慕ってくれているというのに俺は自分で自分の印象を底辺まで落としている。  折本のことを負けじと睨みつけていれば、横から呆けた呟きが聞こえる。 「この人ですか……? 先輩の変なドア開いた人」  やかましいわ。冷静に分析するんじゃない。今までの自分の言動を思い起こし、頭を抱えたくなった。筒抜けすぎる。  東條くんは折本に睨まれて、慌てて俺の後ろに隠れた。 「あ、怪しいもんじゃないです!」  小声で東條くんが言う。折本はちら、と東條くんに視線を投げてすぐさま俺に目を向けた。刺すような視線は氷のように冷たい。 「…………なにやってんの」 「散歩だよ、散歩」  胃がきゅっとなったが、頭はすっきりし始めていた。俺の後ろで東條くんがちらちらと折本を窺っている。 「えっ、先輩散歩してたんですか……てっきり俺に会いに来てくれたのかと」  東條くんよ。その通りだけど、一旦口を閉じてくれ。あんなに無口だったのによく喋るね? 「その子は?」 「…………」  前の職場の後輩。と言えばいいものの、前職に関わることを折本に向けて話したくはなかった。 「あの、初めまして。東條です。以前、職場で真崎先輩のお世話になっていました」  俺が沈黙を貫いていれば、後ろから場違いなほど朗らかな声が聞こえてくる。いい声。じゃなくて、そんな律儀に挨拶をしなくてもいい。 東條くんは俺の後ろでそわそわしていたが、やがて隣にやってくると折本にガバっと頭を下げた。あまりの勢いに、俺も折本もびっくりして東條くんを振り返った。 「あのっ! 話は聞きました! 先輩をよろしくお願いします‼︎」  話って何の話だ? セックスのほうか? それとも俺が折本に助けられたほうの話か?  東條くんはやることはやったぜ、とでも言うように満足気な顔を俺に向けると、グッドサインを出して駅のほうに走っていく。  「あ! ちょ、東條くん!」  追いかけようにも、今ここで折本を置いて俺まで逃げるわけにはいかない。つい東條くんを追いそうになったが、背後の気配を感じて立ち止まる。それと同時に手首を掴まれた。 「いっ……」  骨まで砕きそうな強さで手首を握られ思わず後ろを仰ぎ見れば、力の強さとは裏腹に折本は驚いたような顔をしていた。しかしそれも一瞬で、折本はすぐに眉を寄せ舌打ちをした。 「おい」  夜だから声を控えているようには聞こえなかった。今の折本にそんな気遣いをする余裕など見えない。ただ感情を抑え込んでいるだけのようなその声音にぞわりとした。 「いぃ、いたい、痛いって折本」  過去に、こんな折本の声を聞いたことがある。俺がろくでもないことをやらかそうとした時だ。じり、と後ずさるが、ただ事じゃない空気に足が動かなくなる。  折本がゆら、と顔を上げ物凄い形相で怒鳴った。 「てめぇ、また食ってねぇだろ!」 「は、はぁ? お前、うるせぇよ、今何時だと思って」 「飯っ! 食ってねぇだろっつってんだよ!」  勝手がすぎる。  散々好き勝手やらかして、いざ真実を知れば自分勝手に帰らなくなって。毎日毎日飯を用意している人間に投げる言葉がそれか? 「はぁ⁉︎ 何言ってんの、自意識過剰? 別にお前がいなくても飯くらい食うけど、バッカじゃねぇの」 「じゃあ、いつ食った? 最後に食ったのいつだよ!」 「どうでもいいだろそんなん!」  生ごみが増えた。  冷蔵庫に溜まっていったタッパーは消費されることなく、傷んでは腐っていった。捨てても捨てても、一日ごとに次々と増えていく。 「お前が! 帰って来ねえから‼︎」  飯が喉を通らない。別に死にはしない。 「大事な話は黙ってるし女は連れ込むし、酔うとゲロ吐くし」 「大事なことなんて、お前だって黙ってただろ!」 「転職なんて嘘だよ‼︎」 「あ?」 「ふっざけんなよ! 俺をこんなにしたのお前だろ!」  人の体も生活も将来も、全部全部狂わしといて、一体何がしたい。思ってることくらい口に出して言えよ。  拳を握りしめて折本を睨みつける。青信号に照らされた顔は、青白くなっている。それが信号の光のせいなのか、本当に折本が顔を青くさせているのか分からなかった。握りしめた拳が震えている。唇を噛みしめた。 「お前なんざ……」  何を言うつもりだよ、俺。声が震えている。折本がサッと俺の手首を離した。頬を引きつらせて、一歩退く。 「はっ……嫌いか? 選ぶ余地があってよかったな。今なら、お前が出ていくことも、俺を追い出すこともできる」  そんな顔をして、平然と何を言う。だから、聞いてねぇんだよ。言えよ、言えよ折本。俺が好きだって言って。いつもみたいに、俺を抱けよ。どうしたら手に入る?  なぜだか、脳裏に東條くんの顔が浮かんだ。今の東條くんじゃない。疲れた顔をして、泣きそうになりながらパソコンに向かっていた頃の東條くんだ。上司の罵倒。折本の甘い声。我慢の限界がきて、禿げたおっさんのネクタイを掴んで乱暴に引き寄せた。  退職届を出したその日に、上司を殴りそうになった。それを聞いた折本は涙を流しながらゲラゲラ笑った後、急に真顔になって「殴るのは駄目だろ」と常識人ぶった。  仕事、辞めろよ。となんとも言えない顔で言ってきて、半ば強制的に退職届を作らせたのは誰だ? 真崎が待ってる家に帰るよ。飯でも作って待っとけばいいよ。そう言ってめげずに俺を説得した。全部、お前が言った言葉を俺は覚えている。 「……は? マジで意味わかんねぇ」  緩められたネクタイに手を伸ばし、締め上げるようにして引き寄せた。頭上で信号が点滅している。歩行者信号が赤になった途端、タクシーが車道を明らかに超過速度で過ぎ去った。 「っ、」  勢いあまって歯がぶつかる。引き寄せて重なった身体からは、一日働いた汗の匂いがした。夜でも、気温が高く湿度も高めだ。折本の肌はべたついている。  一瞬固まった折本が、我に返ったように後ずさろうとした。ヤリチンクズがビビってんじゃねぇよ。  逃がさないように離れかけた唇を追いかけ、頭に手を回して引き寄せた。舌を入れ、無理矢理折本の舌を絡めとる。びく、と折本が肩を震わしたのが分かった。自分が優位に立てたようないい気分になる。存分に、そうしてからようやく顔を離す。  目も合わせられないくらいのその距離感で、吐息を吐き出した。 「俺が待ってる家に帰ってきてくれるんじゃないの?」 「…………お前だって、もう俺のために生きてくれるんじゃないの?」 「そんな重いこと約束したっけ」  無言で飛んで来た拳が腹にキマった。息がつまって、折本の肩を掴む。 「いって……うそ、うそ。覚えてる。お前が覚えてるとは思わなかったんだよ……」  泣くわ叫ぶわ散々の状態だった俺を説得するための言葉だった。その場限りのものだと思うだろう。覚えているのなら、よしとしてやるよ。俺は寛容な男だから。 「折本。俺がお前のことどう思ってるか、知ってる?」 「言ってみろよ。俺の足元にも及ばねえから」 「じゃあお前が言ってみろよ。女遊びしてすみませんでした、はい復唱」 「復唱させるのそれでいいの?」  俺の前髪を指でかき上げた折本が眉を顰めた。触れる指の優しさが、温度が、全身で伝えてくる。しばらくその顔を見つめていたら、ぽつりと言葉が零れ落ちた。 「好きだよ、颯」 「簡単に好きとか言えるほど、俺の愛は軽くねぇんだよ」  顎をぐいと掴まれた。重なった唇が柔らかく溶け合う。探るような舌の動きは丁寧で、慎重で、ちょっとだけ緊張していた。
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