1.ワールドイズマイン

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「田中先生、後ろでもめてる!!!!」 田中先生の後ろでぴむちゃんと康太くんがおもちゃの取り合いで引っ張り合いになっている。ぴむちゃんに張り付いているのにしっかりしろよ、と言い方がきつくなる。ただでさえはっきりした顔立ちと声と喋り方できつく感じられることが多いからできるだけ優しく言ってあげたいと思うけど、噛みつきを防げなかったら一日ブルーになるから仕方がない。 噛みつき。1歳児と言えば噛みつき。噛みつきと言えば1歳児。というくらい1歳児にはつきものだ。自我が出ているのに言葉が出てこないから、低月齢児は歯が生えてくるのがむず痒いから、など理由はあるけれど、噛みつきを防げなかった場合、噛んだ方にも噛まれた方にも謝罪をしなければならないから気が重い。まあ私はパートタイマーで1時には仕事が終わるから保護者に直接会うことは無いけれど、結婚前までフルタイム正社員で他園で働いていた経験から若手の森ちゃんに出来るだけ嫌な思いをせず働いて欲しいなぁ続けて欲しいなぁとの思いから厳しく保育には臨んでいる。フルタイムを続けられなかった自分みたいにならないように。 時計をちらちら見る。 「森ちゃん、ローテーションの準備行って来ていいかな?」 「はい、お願いします!」 リーダーの森ちゃんの許可を得てから保育室を抜け出て体育遊具の元に向かう。もうすぐ体育ローテーションの時間。BGMが一斉放送で流れるため、それに間に合うように廊下になだらかなマット、ウェーブバランス、飛び石などを配置する。要はこのBGMが流れている場合は身体を動かしましょう、ということ。体育遊具を輪のように配置して隙間なくぐるぐる回るようにするらしい。狭い園舎なので身体を使う活動は良いなと思うけど、混まないように終わった子を次の体育遊具に「早く」と急かさないといけないことと、準備片付けはパートの仕事だから保育士的にはあまり好きではない。 軽快な運動会バージョンのテンポと音源にアレンジされた松浦亜弥の「ね~え?」が、体育ローテーションを告げる合図だ。 この曲を聞くと、始まったと気が引き締まる。と共になぜこの選曲なのか、園児向けでもなく既にCD発売から10年以上経つのにそのままなのは前例主義の怠惰だろうな、と怒りを感じる。 「弘義くん、前見て!!ぶつかるよ!!田中先生、見えてる??」 飛び石を弘義くんがよそ見しながら逆走しようとしているのを、側にいる田中先生は気付きもしないから、きつい口調で言葉で言う。 すみません位言ったらいいのにその余裕も無いのか、私の言葉に何も反応しないまま弘義くんの方に対応するのがまた腹が立つ。彼女はわかっていない。保育は職員の人間関係だ。どんなに立派な保育観があろうとも、一人で保育できない以上他の賛同者がいないと実現できない。そして、今日この職員メンツで一番権力を握っているのは私だ。今日休みの育児休業明けの細野先生を除けば、私が古参だ。パートタイマーだろうと、いやパートタイマーだからこそ責任を負わなくていい立場だから好き放題言える。そんな私に対して返事もしないってどういうこと、と自ら怒りにガソリンを注いで燃え上がらせながら頭を掻いてローテーションの時間を終えた。 森ちゃんがローテーション後、子供を集めて絵本を読んでくれている間に、私と最近入った新人の林先生でローテーションの片付けと次に続く日課活動の準備をする。林先生は同年代だが、学校ではなく子育て中に保育士の資格を取ってこの園が保育士として初勤務なので、して欲しいことを次々指示する。はい、と穏やかな笑顔で返事してくれる林は、返事すらない田中に比べればまだマシだが、自分から進んで仕事を探そうという覇気がない。パートタイマーに求められるのは保育ではなく要領だ。要領良く補佐をしてリーダーの望むようにすること。ニコニコするだけの保育士なんざいらないっつーの、と心の中で悪態をつきながら体育遊具の残りを林に任せて日課活動に使う教具セットと薄っぺらい座布団を今日の園児出席数取りだす。 この園に来て驚いたことがたくさんあるがその一つがこの日課活動だ。なんと1歳児が座布団で正座をするのだ。なんと1歳児が国旗などのフラッシュカードを見るのだ。 子供が好きな食べ物などのフラッシュカードもあるが、1歳児に国旗を見せる意味が今でもよくわからない。 わからないが、パートタイマーなので園の方針に口出さず、言われた通りに準備と片付けをしている。日課活動中は森ちゃんと田中先生だけで、他の先生はカレンダーのようになっている個人持ちノートの今日のところに判子を押したり、荷物整理が出来ていなかったらそれを終わらせたり、余裕があれば掃除をしたりして過ごす。イギリス、オランダ、日本……等国名を耳で聞きながら用事ができる時間を有効活用する。 日課活動が終わり片付けをし、おもちゃで遊んでいる子供に合流したかと思ったら、次は給食の時間だ。保育室以外の場所で食事をすることになっている。 エプロンと三角巾を身につけ、テーブルと椅子を出し、拭いて、給食を調理室からもらう。 ご飯、おかず、汁を偏らないようにおたまですくって入れ、少食な子供用に少なめの分も作る。コップにお茶を入れ、テーブルに食事を置いたら、クラスに戻り 「給食準備出来ました!」 と声をかける。午前中のパートタイマーで一番肝心なのがこの時間だ。給食準備に時間がかかりすぎり11時を過ぎると食事途中で眠ってしまう子供がいるから、よほどのことが無い限り11時仕上がりを厳守している。 流れ作業で子供の手洗い、エプロン装着を進め、席についた子供からどんどん食べ出していく。全員が食べだしたのを見計らって、 「林先生!!食後の口ふきタオル絞って、名前が書いてある口ふき入れに入れてもらっていいですか??週明けだし眠くなる子が多いと思うから5分で終わらせて欲しいです!!私は布団敷いてきますね!!」 濡らす前の口ふきタオル入れと、濡らした後入れる名前が書いてある6連の口ふき入れを渡し、布団を敷く保育室にダッシュで向かう。 この子供と子供はくっつけたら騒ぎ出すから離す、あの子供は早く眠くなるだろうから奥の方に布団を敷く、とぱぱっと寝かせる場所を頭に浮かべながらどんどん敷いていく。 少しでも早く戻れたら、少しでも早く食事介助ができて、少しでも早く眠りにつけて、少しでも早く先生達がノートを書き出せる。 大股で布団を飛び越しながら、食事場所に帰ると林がまだおたおたしていた。 「ありがとうございます、代わってもらっていいですか??林先生、食事介助の方お願いしていいですか??」 と形式だけの謝意と指示を述べ、口ふきタオルをひったくる。 「あ、はいー。わかりましたぁ」 と穏やかを崩さずテーブルに向かう。手慣れた動作で作業を終わらせ、自分もテーブルに向かうと弘義くんがこっくりしていた。 誰も気付いていないようなので 「弘義くん寝てますけどー」 と言いながら弘義くんを起こし、スプーンを口に運ぶが首を振って食べなかったので、歯磨きをし口ふきタオルで拭いて服をはたいてから脱がせて布団のある保育室に連れていく。 眠り込んだ弘義にパジャマを着させ終えると、食べ終えた子供が森ちゃんに連れられ3人来る。 「飛田先生、3人お願いしていいですか?」 「オッケー!!このまま寝かしつけ入っていい??」 「はい、お願いします!」 今日のおかずは牛ごぼう煮で食べない子供が多かったからいつもより着替えに来るのが早いなと思いながらパジャマに着替えさせる。今日は全員出席の19人だからさっさと着替えさせて、さっさと寝かせていかないと、第二波が来て大変になるな、と、ひたすら手を動かす。第一波が着替え終わった頃に第二波、落ち着いた頃に第三波とスムーズに流れたので騒ぐことなく眠りにつけた。 森ちゃんが来て子供達が入眠に向かっている姿を見て、 「片付け行って来ていい??」 「はい!いつもありがとうございます!」 食事場所に行くと、食べるのに時間がかかる2人と2人に背を向けて食器の片付けに勤しんでいる林が目に入ったので思わず、 「林先生、子供は常に視界に入れながら片付けしてもらっていいですか??見てない時に何かあったら、見てなかったじゃ済まされませんよ!!」 ときつく言い放ってしまった。 は、はい、すみません、と怯えたように返事する林。何、その態度。何か私が悪者みたいじゃない??私は当たり前のことを言っただけで、それを守らなかったら不利益になるのはあんただから言ってあげてるんですけどと頭を掻きながら子供の様子をみる。2人とも後3口くらいで終わりそうで、今は噛み噛みしているところだったので、子供を気にしながらテーブルを拭いて片付け始める。 合間合間にスプーンを口に運び、食器が空になったのを見計らって林に食器を調理室に返すよう指示を出す。2人を歯みがきから後始末をさっとして、保育室に連れて行き寝かしつけを頼んで食事場に戻る。 手際良く林と片付けを終わらせ、子供の脱いだ服を裏返したりご飯粒を取りながら汚れ物袋に入れていく。ルーティンが終わった、12.45、時計を確認してから割り当ての玄関掃除に向かう。 今日は10分取れるから、少し広めにはいておこうと箒を動かす。パートタイマーにはそれぞれ掃除の担当場所があり、保育の合間を縫って掃除することになっている。 担当の玄関と靴箱は、扉は保育園の顔であるし、出入りでしょっちゅう砂が上がるので、玄関は必ず毎日掃除し、靴箱は箇所を3つに分け1週間に1回は掃除するよう計画立てている。 今日は玄関と靴箱A箇所を掃除しよう、と掃きながら空を見た。無意識にニコニコ動画パーカーを着た彼女が思い浮かんだ。 彼女、ニコニコ動画見るのかな。私も昔見てたな。というか、あんなキャラもの保育園に堂々と着ていけるよな。若いからか。何歳やったっけ?私より下って言ってたな。フルネーム、何やったけ。秋月……しずくは子供の名前。なんかカタカナの名前だったような……。 手を動かしながら、暇になった頭で考え事をしていた。 12.55、箒を片付け手を洗い、トイレを済ませ、13.00を確認してからお先に失礼します、と森ちゃんに声をかけた。 「飛田先生、今日いっぱいサポートしてもらってありがとうございましたー!トラブル無く午前中過ごせて本当良かったですー!」 「いえいえ、本当何事もなく午前中終わって良かったねー!!」 事務所で退社の挨拶をし、着替えと荷物をしにロッカールームに戻る途中、いな先生と目が合ってお疲れー!!と労り合った。 密室になったことを確認し、 「いなちゃん、今日マジしんどかったー!!」 「え、なになに?ゆめちゃん何がしんどかったん?」 ゆめは私の本名。同じ年に入社したいな先生とは子育て仲間と言うこともあって意気投合し、いなちゃんゆめちゃんと呼び合う中だ。 「今日さー、細野先生も大谷先生も休みの上、補充林先生。&週明けで子供落ち着かない、荷物多い」 「そりゃ大変だねー、お疲れ」 「本当しんどかったよ。メンツ弱い上に林先生に教えてあげる作業が加わってさー。んで、ぴむちゃんも最近噛みつき続いてるし絶対防がなあかんのに田中先生はいまいち頼りないし」 一通り愚痴を吐き出すと荒ぶる心が少し落ち着いた。 「聞いてくれてありがと。ちょっとすっきりしたわぁ。いなちゃんは今日どうやった??」 「うち?うちんとこはいつも通りかなぁ。でも、運動会前だからやっぱピリピリしてる」 「はよ終わったらいいのになー」 「ほんまに」 バイクに跨って空を見上げた瞬間、ふと思い出せた。 秋月ルリ、だ。 『時が埋めていくから、一瞬で拾い上げなきゃ』 >>2002.11.10 Sunday 00:24:32
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