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瞳にオイルが滲む時
「どうした?髪なんか熱心に整えて」
「あ……いや、少し寝ぐせがね」
トイレの鏡を見ながら、髪を梳いていたら、隣の洗面台に立った工場長に笑われた。髪を手で押さえて、咄嗟に誤魔化した。
「寝ぐせなんか、帽子被ってりゃ気にならんだろ。そういや、今日だっけ?アバルトの人が来んの」
「中条さんですよね。今日の午後に来店されるはずです」
「お前が整備したんたら、問題はないだろうが。一応、最後にエンジンかけて確認しとけな」
用を済ませた工場長は、肩をポンと叩いて出ていった。そう、今日は中条が車を引き取りにくる日だ。工場長が念押ししたように、修理を終えた後も、毎日エンジンをかけ、エンジンルームを開けて水漏れを起こしていないか確認してきた。
普段は髪なんか気にしないが、あの娘に会えるならと、昨日は美容院で梳いてもらってきた。
鏡に写る自分をぼうっと眺めていると、中条の顔が思い浮かんだ。ニコリと微笑んでくれたかと思うと、「仕事に集中しないとだめですよ」といたずらっぽい顔で言われた。
「何考えんてんだ俺は……」
我に返り、水で思い切り顔を洗った。
冷たい水が頬を刺激し、現実世界に引き戻されたたような気がした。鏡越しに濡れた自分を見つめながら、ぽつりと呟いた。
それでも、あなたのことが忘れられないんだ。
中条は時間通り、きっちり5分前には来店した。営業の担当者に案内され、ショールームに入ってきた。
「いらっしゃいませ。中条さん、お待ちしておりました」
「あ……こんにちは。お世話になります」
名前を呼ばれて、中条は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつも(・・・)の笑顔に戻った。
「アバルト、治りましたか?」
「ええ、ホール類とサーモスタットを交換しておきました。今日も一度確認しましたが、水漏れはありませんでした。水温も安定しています」
「わあ、ありがとうございます!さすが、プロの整備士さんですね」
修理した箇所、交換した部品を記載している伝票を広げて、丁寧に説明していく。時たまコーヒーのストローに口を着けながら、中条は説明の一つ一つに頷いてくれる。
「それで、料金の方が見積もりでお伝えしていた通り、この額となりますが、よろしいですか?」
「大丈夫ですよ。カードでもいけますか?」
「クレジットですね。かしこまりました」
預かったクレジットカードで、決済の処理を済ませた。支払いを終えたら、中条はアバルトに乗って帰ってしまう。
もう、会えないのかと思うと、胸を掴まれたような感覚になった。
好きになってしまったのかな。
「カードをお返ししますね。最後にこちらにサインいただけますかね?」
「はい、分かりました」
クレジットの伝票にサインをもらうため、ボールペンを手渡した。中条は細い指で、丁寧に文字をなぞる。俺は紙の端を押さえる中条の左手に釘付けになった。
中条の左手の薬指には、細くシンプルなシルバーの指輪がハメられている。
「書けました。これでいいですか?」
「あ……は、はい……ありがとうございます」
混乱する頭と、困惑する心をよそに、伝票とペンを受け取る。中条が記入してくれた字を見て、俺は全てを理解した。
寺城絢。
もう、「中条」さんじゃないんだ。俺にとって、遠くの存在の人になってしまったような気がした。いや、元々ただのお客さんと、一介の整備士だ。触れられるような近さではなかったし、触れていいような人ではなかった。
「おめでとうございます」
心のどこかで芽生えかけていた淡い想いを断ち切るように、祝福の言葉を述べた。
中条は目を丸くしたが、意味を理解してくれたのか、頬を赤らめて笑った。
「あ、ありがとうございます!」
口元に当てた左手のリングがぴかりと光った。その笑顔があまりにも幸せそうで、少し眩しく見えた。
「でしたら、お気をつけてお帰りくださいね」
「はい。本当にありがとうございました」
アバルトの前で、中条は何度も頭を下げた。整備されたアバルトを見つめる中条は、我が子を愛おしむ母親のように優しい顔をしている。この顔を見れただけでも、俺はこの車を治して甲斐があったし、この人と出会えてよかったと思えた。
「これ、大したものじゃないですけど、よかったら皆さんで召し上がってください」
「ああ……すいません。気を遣っていただいて、スタッフでいただきますね」
中条がくれたのは有名洋菓子店のギフトセットだった。胸に抱いて持ったが、ずしりと重く感じた。
「お見送りさせていただきす……」
中条がアバルトのエンジンを始動させたのを確認すると、先に車道に出た。手で中条を制しながら、対向車が来ていないかを慎重に確認する。
「行きましょうかッ?」
「ありがとうございましたぁ!」
車道に出る時、中条は窓を開けて礼を言ってくれた。最後に俺もニコリと微笑んで見送った。
「ありがとうございました!お気をつけてッ!」
どうか、ご安全に。そして、お幸せに。
中条がくれたお菓子のギフトを、休憩室で広げた。色とりどりの焼き菓子や、チョコレートが綺麗に詰め込まれている。そのうちの一つを手に取って口に入れた。
「何か少し、しょっぱいな……でも、美味しい」
俺の目から滲んだものが、頬を伝う。
どこかで、オイルが滴る音がした。
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