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「ふう……腹ペコだ」
コーヒーの入ったマグカップと一緒に、コンビニののり弁当をデスクに広げる。バタバタとしていたから、休憩時間を逃し、昼飯を食い損ねていた。整備士になって七年、一通りの仕事はこなせるようになったが、次から次へと入ってくる作業に忙殺され、指定の休憩時間に飯を食えたためしがない。
自動車関係の専門学校で二級整備士を取得した俺は、卒業後にメーカーの正規ディーラーに就職した。入社以後、整備士として着々とキャリアを重ねてきた。在職中に自動車整備士としては最上位の一級整備士に合格した上、先月には社内資格では最高峰の「ハイテクマスタ―」にも合格した。忙しい日々の中で努力した結果だと思うと同時に、社内でもトップクラスの整備の腕を持っていると自負している。
点検やオイル交換だけでなく、ミッションの乗せ換えや、エンジンのオーバーホールなど、車に関わることはたくさん経験した。触った車種も自車のみならず、他車も含まれている。先月には旧型のジムニーに、リビルトのターボを乗せ換えた。
車を通して、いろんな人たちと出会うこともできた。それも、この仕事で得たかけがえのない財産だと思う。
「東藤、少しいいか?」
「はい?」
のり弁をむさぼりながら、タブレットでニュースを眺めていると、工場長に肩を叩かれた。いわゆる副店長的な立場の工場長は、俺たち整備士のボスだ。作業のスケジュールや、割り振りは全て工場長の采配に委ねられている。俺とは親子くらい歳が離れているが、俺の技術を正当に評価してくれて、責任が伴う作業も任せてくれる人だ。
「悪いな。飯食ってる時に」
「いえ、何かありましたか?」
「うん、急に入庫の予約が入ってな。直に来店されるらしいが、お前診れるか?」
「はあ……」
またか。俺は内心舌打ちした。ディーラーでは、商談や保険などの営業を除いて、車検や点検などは、予約制となっている。一日に、整備士一人がこなせる作業は限られている。その限られた時間の中で、決められた作業を完了させないといけない。たまに来る予約なしの入庫は、時間に追われる整備士にとって好ましいものではない。
「それで、どんな要件なんです?」
半ばうんざりした顔で尋ねると、俺の心中を察してか工場長はすまなそうな顔をした。
「他車というか、外車なんだが『水温計』が異常な高さを示しているらしい。不安になって、たまたまうちが近かったから、持っていっていいか?ということらしい」
「外車ですか……」
外車と聞いて唇を噛む。国産車と違い、外車は複雑な構造のものが多く、国産ディーラーでは部品の供給が難しい場合がある。それに俺自身が外車に対して、いや、外車に乗る人間に良いイメージを持っていない。勝手な偏見だが、金に物を言わせて、見栄と見てくれだけで、車そのものを大切にしない人間が多いと。
「他のやつが手空いてなくてな。お前なら外車でも診れると思うんだが」
「そりゃ、診れますがね。ただ、うちのルートで、部品が入るかどうか……」
「その辺は気にしなくていい。向こうだって、緊急でうちを選んだわけだ。とりあえずはどういう状態かだけ見てやってくれ」
「まあ、分かりました」
曖昧に頷いて、残りの弁当をかき込んだ。
あまり噛まずに弁当を食べたので、少々胸やけがする。腹をさすりながら事務所を出て、ショールームを抜けると、来客者用駐車場にテントウムシのような丸い黒い車が止まっていた。一見して国産車でないと分かる形だ。
「あれが、工場長が言ってた外車か……フィアットだったっけ?」
目を凝らして車のエンブレムを見ると、黒いサソリが刻印されている。フィアットのスポーツモデルと謳われるイタリア車「アバルト」だ。外車には疎かったが、エンブレムの独特さから、名前くらいは知っていた。
アバルトの隣で、新人営業マンに状況を説明している女性がオーナーだろう。見たところ俺と同年代のように見える。
「後藤君、変わろうか」
「あ、東藤さん。お願いします。電話いただいていた中条さんです。やっぱり、水温が高いですね」
「オッケー、分かった」
対応してくれた新人君にバトンタッチした。営業マンは車の知識はあっても、機械は疎い。
「えー……っと、中条さんでしたよね?」
「すみません……急に押しかけて」
外装を眺めながら、オーナーも横目で見ると、俺は釘付けになった。
綺麗だ。
ただ、その一言が頭に浮かんだ。白い肌に、ライトブラウンに染められたミディアムショ―トのその人は、俺が見た女性の中でたぶん一番美しかった。ほんの少し太めの眉と、大きな瞳は、育ちと性格の良さが滲み出ている。
隠しきれないほど潤んだ瞳を真っすぐに向けられ、ドキリと心臓が鳴る音が聞こえた。顔を背けるように、車に向き直る。お客さん相手に何やってんだ、俺。
静かに深呼吸して、ドアを開ける。水温系のメーターを見ると、針が高温を示す「H」の近くを指していた。確かに普通ではありえない高さだ。よく、オーバーヒートせずに、ここまでこれたな。エンジンが焼き付いていたら、それこそ取り返しがつかないことになっていた。
「確かに……高いですね」
「大丈夫なんでしょうか……?」
「とりあえずはエンジンルームを見てみます」
不安そうな顔をする中条に頷いて、俺はボンネットを開いた。
「あっ」
やはり予想していた通りだった。冷却水の補助タンクであるリザーブタンクが、すっからかんだった。エンジンを冷ます役割の冷却(クーラ)水(ント)は通常は、エンジンとラジエーター、そしてリザーブタンク内をホースを伝って循環する。温められた冷却水は、リザーブタンクへと送られ、そして冷えるとラジエーターに戻る仕組みになっている。普通、リザータンクには一定量の冷却水が入っているものだ。
だが、このアバルトのリザーブタンクには、外目から分かるくらい一滴も入っていない。
「水漏れか……」
この状態だとラジエーター内も空っぽかもしれない。ラジエーターの中も見たいが、エンジンが冷えないことにはキャップを開けられない。下手に開けようとすると、火傷する可能性があった。
エンジンルームを睨む俺を、そわそわすると見る中条に向き直り、不安にさせないようゆっくりと話す。
「もしかしたら、水漏れを起こしている可能性があります。エンジンが完全に冷え切ったら、しっかり確認するので、それまでお待ちいただけますか?」
「あ……は、はい」
「よかったら、ショールームへ。うちのコーヒーは美味しいと評判ですよ」
そろそろ頃合いか。エンジンルームが冷え切ったのを確認し、ラジエーターキャップをウエス越しに掴んで開けた。
「やはりな……」
予想していた通り、ラジエーター内に冷却水は入っていなかった。この状態から察するに、冷却水が無くなったのは、一日二日程度ではなさそうだ。ペンライトで照らしながら、エンジンやラジエーター周りに目を凝らすと、冷却水を循環させるアッパーホースと、ロアホースにピンクの塊がこびりついているのが見える。
「ここから抜け落ちたんだな」
普通の水であれば乾いておしまいだが、冷却水は漏れた箇所で固まって色が着く。ロア、アッパー二本のホースも膨張してパンパンに膨らんでいる。経年変化による劣化だろう。このホースを変えないことには、いくら冷却水を入れても、漏れ続けるだろう。
タブレットで水漏れ後の箇所を撮影し、それを持ってショールームに向かった。
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