水漏れは君の涙

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水漏れは君の涙

「そのまんまかよ……」  ビニールを破りながら、思わずため息が漏れる。工場長からは一週間ほどかかると言われた部品は、思いのほか早く三日ほどで入っていた。  作業が余裕をもって進められるので、早くきてくれるのはありがたい。さあ。やるか!とエンジンルームを意気揚々と開けたが、初っ端から肩の力が抜けた。今取り付けられているホースと、新しく届いたホースの長さが違うのだ。これでは、一度長さを測って、切って使わないといけない。  他車や外車だとよくあることだ。メーカーはさすがに整備士の気持ちまで考えてはくれない。一々不平を垂れていては、この仕事はやっていられない。  気持ちを切り替えて、ホースを掴んだ。熱や劣化で膨張したホースはずいぶんと硬くなっている。ホースを固定しているバンドも固着していたが、プライヤーで挟んで捻じると何とか外れた。  取り外したホースを参考に、新品のホースにカッタ―を入れてカットする。長さを調整したホースを新しいバンドで絞めて固定する。これで一本が終了。同じ要領で、アッパーホースも取り換えた。 「取りあえずホースはできたか……」 小さなスペースにぎっしりと詰まったアバルトのエンジンルームは、手を入れてホースを掴むだけでも難儀する。それゆえシンプルな作業でも、時間を要してしまう。 「後はこれだけか」  小箱から突起の出た金属を取り出した。このサーモスタットは、熱を検知し、エンジンの状態に合わせて、冷却水をラジエーターに送り込み、水温を調整する装置だ。これが壊れていると、水温調整が行われず、エンジンの熱は上がり続けることになる。今回のアバルトの異常な水温の上昇は、冷却水漏れだけでなく、このサーモスタットも怪しいとにらんだ。  サーモスタットにも寿命があり、いつかは取り換える必要がある。備えあれば憂なしということで、念には念を入れてホースと一緒に取り換えさせてもらうことにした。  他の部品を傷つけないよう慎重に手を入れて、ゆっくりとレンチでボルトを緩めていく。何とか取り外したサーモスタットを見ると、冷却水が固まって結晶化したものがこびりついていた。 「俺の見立ては当たってたな」  一人満足気に呟いた。取り付けられていたサーモスタットは、やはりだめになっており、バルブが開かない状態だった。これでは、冷却水が入っていたとしても、うまく循環しなかったはずだ。  新しいサーモスタットをはめ込んで、後は冷却水を入れるだけだ。キャップを外したラジエーターに漏斗を着けて、ゆっくりと新しい冷却水を流し込んでいく。同じようにリザーブタンクにも入れてやる。  規定量まで冷却水を入れると、一度エンジンをかけた。しばらくアイドリングさせると、徐々に水温も上がっていくと同時に、ラジエータ―内の空気(エア)も抜けていく。時間が経っても水温が安定しているのは、新しいサーモスタットが正常に動作している証拠だ。何度かエア抜きを繰り返しては、冷却水を補充し、規定量まで入っていることを確認し、ラジエーターキャップを閉める。  これで、取りあえず作業は終了だ。 「ふう……これでいいだろう。悪かったな。しんどい思いさせて」  閉じたボンネットを、労わる様に撫でてやった。  車体の下から漏れがないか確認した後、興味本位にアバルトの整備記録を見てみた。  つい、先月車検を終えたばかりのようだ。検査の時に、冷却水が漏れていたら車検は通らない。つまりは、車検を受けた後に水漏れを起こしたことになる。多かれ少なかれ、修理することになったかもしれない。  だが、記録を見るにタイミングベルトや、ウォーターポンプなどの重要な部品はきちんと交換されているうえ、オイルも3千キロごとに交換している。女性にしてはというと語弊がるが、車に無頓着な人はここまでマメにしない。  整備記録から、中条がアバルトを大切にしていることが強く伝わってきた。整備士として、いろんなお客さんと出会ってきた。その中で共通することは、車を大事にできる人は、「人」も大切にできるということだ。 「いい人に乗ってもらえたな」  アバルトに問いかけると、ワックスの表面がきらりと光った。
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