6人が本棚に入れています
本棚に追加
整備士は転職
リフトで上げられた車体の下に潜り込み、オイルパンに着いたドレンボルトに、トルクレンチを当てて、ボルトを緩めていく。ドレンボルトを外したと同時に、黒い液体が穴から漏れ出てき、廃油皿でそれを受け止める。
「思ったより黒いな」
前回の交換から三千キロも走っていないが、ツインターボを搭載した車だ。オイルの変色具合から、いかに高回転のエンジンで、強いブーストがかかるターボであるかを物語っている。古いオイルが完全に抜けきるのを確認すると、ドレンボルトを締め直す。ドレンボルトの締め具合は、弱すぎてもだめだが、強すぎてもいけない。
今度はリフトで車体を下げて、ボンネットを開けた。三〇年近く前の車種だが、エンジンルーム内はそれなりに綺麗に保たれており、ちゃんと整備がされていることが伺える。それだけで、オーナーが大事に乗っていることが伝わってくる。
「確か、もうワンサイズ硬めのやつだったな」
オーナーから、指定より硬めのオイルに変えてくれと承ったので、ご要望通りの物を用意する。「10w‐50」と表記された黒と赤のオイル缶は、まず普通の車では入れない硬さのエンジンオイルだ。エンジンのオイルフィラーキャップを開けて、そこにオイルジョッキに注いだオイルを流し込んでいく。
オイルパンから流れ出た「どす黒い」ものとは違い、真新しいエンジンオイルは黄色く透明感がある。この液体が車の中を流れる血液となるのだ。何千、何万毎回と繰り返してきた作業だが、俺は整備士として一番やりがいを感じる。
レベルゲージでオイルの量を確認した後、一度エンジンを点ける。実際にエンジンをかけて、足回りからオイルが漏れていないかを確認する必要があるからだ。この時オイルが漏れるようなら、エンジンに合っていないオイルを使っている、もしくはパッキンやガスケット劣化し、破損している可能性がある。
キーを回すと同時に、シュンという音がしたかと思うと、重低音がピット内に響き渡った。ほんの少しだけアイドリングさせ、車体の下を覗き込んだ。特にオイルが漏れている形跡は見当たらないので、無事作業終了だ。
「ほんといい音するよなお前。大事にしてもらえよ」
ガンメタリックの車体に、赤字で「R」と表記されたエンブレムを、そっと撫でてやる。
「江川さん。お待たせ致しました。スカイラインのオイル交換、無事終了しました」
ショールームの椅子に腰かける長髪で、筋肉質な青年に声をかけた。軽トラのパンフレットから顔を上げた青年は、ボストン型の眼鏡越しに微笑んだ。
「どうも、ありがとうございます」
「江川さん、軽トラの購入をお考えですか?」
「俺じゃなく、両親がね。家の軽トラがだいぶ古くなってきたから」
「いつでもお声がけくださいね」
青年から受け取ったカードを端末に差し込み、決済を済ませる。最後にサインをもらい、納品書を手渡すと、青年は満足そうに頷いた。
「すいません。助かりました」
「いえいえ、とんでもない。いつも、ありがとうございます。ホイール変えられたんですね。いいやつ履かせてるなあって」
「そうなんすよ。思い切って、社外品の物にしました」
愛車を褒められ、青年は嬉しそうにスカイラインのミラーを撫でた。普段は東京に住む彼は、仕事の都合で兵庫に帰ってきた時は、必ずうちでオイルを変えてくれる。そのたびに車の話で盛り上がるのだが、車を心底大事にしている彼には、好印象を覚えて、普段以上に丁寧な整備を心掛けている。
「ありがとうございました!また、お願いします」
礼を言ってスカイラインに乗り込んだ青年は、丁寧な仕草でキーを回した。ブオオオンッという品の良い重低音が再び響き渡る。
「ありがとうございましたッ!お気をつけて」
走り去るスカイラインに向かって、深く頭を下げて見送る。お辞儀をする俺に対して、スカイラインがハザートを焚いて応えてくれる。
どうか事故のないように。また、お会いしましょう。
ディーラー勤務の整備士として、心からそう願い見送る。
最初のコメントを投稿しよう!