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#8 Baby,Don’t cry
橘君が、時緒君の手を握って連れて来たのは保健室。
健康を、保つと書いて保健室でした。
ドアを開けると、男の子の裸が載っている雑誌を開きながら、煙草を咥えている寺嶋保健医の、くるくるの茶髪が振り向きました。
「先生」
寺嶋先生は、笑顔の橘君の背後にいる時緒君を見遣りました。
「ベッド、貸して下さい」
嘆息のような煙を吐き、寺嶋先生は煙草を灰皿の窪みに置きました。
「なにに使うんだ」
「ナニに使うんだよ」
「……」
「勉強、したいんです」
寺嶋先生は右の掌を差し出しました。
「瀬生ちゃんのRINE IDと交換」
「はい、どうぞお」
橘君は、噛んでいたガムをちょん、と先生の掌に置きました。
音楽を選択する時緒君は、人気だけど陰のある美術の先生の名を思い出しました。
「おま、ほんっと可愛くねえわ」
苦虫を噛んだような寺嶋先生の表情は、ガムを口に入れ「うわ、味ねえが!」更にその色を強めました。
寺嶋先生は、それでも煙草を灰皿に押しつけ、大儀そうに椅子から腰を上げたのです。
「うぜーで、汚したらちゃんと拭いとけよ」
保健室のドアは閉まり、静寂が残りました。
橘君は、スラックスを爪先で床に滑らせました。
白い右腿に、紫の花が妖しく覗きます。
「本来、セックスってこういうところでするもんだよ。教室でなんか、駄目」
橘君は、時緒君を手を引きました。
「ふかふかの綺麗なベッドで、大好きな人と、幸せな気持ちに包まれながらするものだよ」
時緒君の眼鏡は、橘君の指で優しく外されました。
「俺を、大好きな子だと思って」
「俺も時緒君を、大好きな人だと思うから…………」
囁いた橘君の唇が、時緒君に溶け込むように触れました。
宵闇と、夕焼けが手を繋いだ空のなか。
2年F組の教室で数Ⅱの採点をする、同期の横山先生の隣で、寺嶋先生の煙草の煙が、緩く立ち昇ってゆきます。
「…………駄目だ」
諦めたような呟きが、橘君の胸に零れました。
「女の時より、どうにかなりそうな気もしたんだけど……」
二人は互いの身体を唾液で濡らし、あまたの男子を絶頂に導いた橘君の肢体を以っても、
時緒君のそれは、熱く迸る熱を放ってはくれませんでした。
「やっぱり駄目だ、ごめん……」
「…………いいよ」
「やっぱり俺は、 不能だよ」
「違うね」
はっきりと形にして、橘君は口にしました。
「時緒君は、不能じゃないよ。男の体に、どうかなる方がおかしいんだから」
「……」
「時緒君は、 極めて正常な反応を示しているよ」
「…………」
ぱた、ぱた。
時緒君の眼から、大粒の雫が盛り上がり、溢れて橘君の胸に降り注ぎました。
「ママ…………っ」
小さな時緒君に、ママはいません。
いないママを呼ばなければいけない程、何か感じたのでしょうか。
橘君は起き上がり、小さく震えるその肩に触れました。
「泰晃君が、怒ってる……!」
怯えている訳じゃなく、どこか哀しげでした。
「ゆるさない。ゆるさないって、怒ってるよ…………っ」
「そうかあ……。でも俺は、時緒君が沢山いるのも、きみの存在も、不能じゃないのも、全部許せるけどね…………」
泰晃君に聞こえたらいいなあと思ったけど、
赤ちゃんの時緒君は泣き止みません。
「大丈夫だよ泣かないで。 俺がママになってあげるから」
んくんくと橘君の乳首を咥える時緒君の、髪を橘君は撫で続けました。
宵闇は、朧げな夕焼けを内奥し、その紺と黒の中に、世界を全て包み込もうとする刹那でした。
隠すじゃない、許すだ。そうやって夜が始まる。
それでいいだろう…………?
泣き疲れて眠ろうとする、時緒君の眼尻を掬いながら、橘君はそう、闇に問うのです。
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