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覚えているのは、濃紺色のワンボックスカー。
どこからか、時折、気の早い桜の花びらが、風に乗って飛んできて、濃いブルーの車に淡いピンクがちぎり絵のように模様をつける。
頭上では大人たちが別れを惜しむ挨拶を交わしていた。
「荷物は、これだけ? 」
「粗方、先に送ってしまったからね。この車も、うちの弟に譲るつもりだし。」
「こっちに戻ってくる予定はないの? 」
「どうかしら? 夫の仕事次第。」
「…………寂しくなるわね。」
しかし、甘寧は、その会話そっちのけで、ずっと、その子を見ていた。
母親の影に隠れるようにしがみつき、二つの黒い目をチラチラとのぞかせている、甘寧より、ひと周り小さな身体の男の子。
「そんなに、ひっつかないで。転ぶから。」
母親がちょっと面倒くさそうに小言を言ったが、男の子は、隠れるように、さらに強くしがみついた。
「もう……」
呆れるようにため息をついた母親は、
「相変わらず恥ずかしがりやで、困っちゃう。これで、あっちでやっていけるのかしらって……」
と甘寧の母に向かって苦笑いして、男の子の頭を撫でた。
「早く、甘寧ちゃんに挨拶して。もう会えなくなるのよ。あんた、甘寧ちゃんに渡すものが、あるんでしょう?」
その言葉に促され、男の子が、恐る恐る顔を出した。
「なぁに?」
甘寧が聞くと、男の子は俯いたまま、背中の後ろに回した手を、ゆっくりと前に差し出す。その手に握られていたのは、
「ノート?」
黄色いチェック柄のノート。
「くれるの?」
「………うん。」
受け取ったノートをパラパラと捲る。中には、男の子の字でクイズや迷路がたくさん書いてある。
「すごい! これ……自分で作ったの?」
驚きに目を丸くして顔を上げた甘寧の前で、男の子の口がパクパクと動いた。
「え? ごめん、何? 」
なんて言ったのか声が聞き取れず、思わず問い返すと、男の子は、消え入りそうなほどに小さな声で言った。
「あのね、この謎が解けたら………」
その瞬間、目覚ましが喧しい音をたてて鳴った。
甘寧は布団から手を伸ばし、てっぺんのスイッチを押す。
それから、時計の背面に手を回し、手探りで小さなレバーを下げた。スヌーズ機能を設定しているから、これを下げないと、また、5分後に音がなる。
甘寧は、ベッドがゆっくりと起き上がると、大きな欠伸をした。
とても古い夢を見た。
とても古い……と言ってもたかだか15年程度の人生。しかし、だからこそ、甘寧にとって10年近く前となれば、それは『ひどく昔』なのだ。
引っ越していく、近所の子。同じ保育園だった。
親同士が仲がよく、たしか、最後の日に母と一緒に、見送りに行った。
引っ越していったあの男の子のことを、甘寧はもう、ほとんど覚えていない。
彼は最後に、ノートをくれた。
ノートには、その子が考えたらしいクイズやなぞなぞが、たくさん書いてあって、ノートを渡すとき、甘寧に何か告げた。
『この謎が解けたら』
ここまでは覚えている。夢でみた通り。
でも、甘寧は、このあとの台詞を覚えていない。
あのとき、なんて言ったんだろう……。
どうしても思い出せない。
すごく小さな声だったから、ひょっとして、最初から聞きとれてすら、いなかったのかもしれない。
甘寧は、ちらりと本棚を見た。
あのときにもらったノートは、多分、まだあそこに、しまってある。
それにしても……
「なんで今更、あのときの夢なんか………?」
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