1.幼い日の夢

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覚えているのは、濃紺色のワンボックスカー。 どこからか、時折、気の早い桜の花びらが、風に乗って飛んできて、濃いブルーの車に淡いピンクがちぎり絵のように模様をつける。 頭上では大人たちが別れを惜しむ挨拶を交わしていた。 「荷物は、これだけ? 」 「粗方、先に送ってしまったからね。この車も、うちの弟に譲るつもりだし。」 「こっちに戻ってくる予定はないの? 」 「どうかしら? 夫の仕事次第。」 「…………寂しくなるわね。」 しかし、甘寧は、その会話そっちのけで、ずっと、その子を見ていた。  母親の影に隠れるようにしがみつき、二つの黒い目をチラチラとのぞかせている、甘寧より、ひと周り小さな身体の男の子。 「そんなに、ひっつかないで。転ぶから。」 母親がちょっと面倒くさそうに小言を言ったが、男の子は、隠れるように、さらに強くしがみついた。 「もう……」  呆れるようにため息をついた母親は、 「相変わらず恥ずかしがりやで、困っちゃう。これで、あっちでやっていけるのかしらって……」 と甘寧の母に向かって苦笑いして、男の子の頭を撫でた。 「早く、甘寧ちゃんに挨拶して。もう会えなくなるのよ。あんた、甘寧ちゃんに渡すものが、あるんでしょう?」 その言葉に促され、男の子が、恐る恐る顔を出した。 「なぁに?」 甘寧が聞くと、男の子は俯いたまま、背中の後ろに回した手を、ゆっくりと前に差し出す。その手に握られていたのは、 「ノート?」  黄色いチェック柄のノート。 「くれるの?」 「………うん。」  受け取ったノートをパラパラと捲る。中には、男の子の字でクイズや迷路がたくさん書いてある。 「すごい! これ……自分で作ったの?」 驚きに目を丸くして顔を上げた甘寧の前で、男の子の口がパクパクと動いた。 「え? ごめん、何? 」  なんて言ったのか声が聞き取れず、思わず問い返すと、男の子は、消え入りそうなほどに小さな声で言った。 「あのね、この謎が解けたら………」  その瞬間、目覚ましが喧しい音をたてて鳴った。 甘寧は布団から手を伸ばし、てっぺんのスイッチを押す。 それから、時計の背面に手を回し、手探りで小さなレバーを下げた。スヌーズ機能を設定しているから、これを下げないと、また、5分後に音がなる。 甘寧は、ベッドがゆっくりと起き上がると、大きな欠伸をした。 とても古い夢を見た。 とても古い……と言ってもたかだか15年程度の人生。しかし、だからこそ、甘寧にとって10年近く前となれば、それは『ひどく昔』なのだ。  引っ越していく、近所の子。同じ保育園だった。  親同士が仲がよく、たしか、最後の日に母と一緒に、見送りに行った。  引っ越していったあの男の子のことを、甘寧はもう、ほとんど覚えていない。  彼は最後に、ノートをくれた。  ノートには、その子が考えたらしいクイズやなぞなぞが、たくさん書いてあって、ノートを渡すとき、甘寧に何か告げた。 『この謎が解けたら』  ここまでは覚えている。夢でみた通り。  でも、甘寧は、このあとの台詞を覚えていない。  あのとき、なんて言ったんだろう……。  どうしても思い出せない。  すごく小さな声だったから、ひょっとして、最初から聞きとれてすら、いなかったのかもしれない。 甘寧は、ちらりと本棚を見た。  あのときにもらったノートは、多分、まだあそこに、しまってある。  それにしても…… 「なんで今更、あのときの夢なんか………?」
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