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序
初夏のしっとりした空気が汗ばんだ肌を撫でていく。
夜風に紛れて葉桜の青い匂いがした。
……この感覚、この空気を感じるのは二度目だ。
「日方(ひかた)……俺も……日方のこと……好き……!」
目の前には困惑したような、不思議そうな、そんな表情の日方がいる。月の光に照らされた彼の瞳は、一瞬だけ煌めいた。
「日方が凛々子と付き合う前から……!」
千景(ちかげ)は消え入りそうな声で日方に言う。
浅く息を吸った。神社の空気って、どうしてこんなに澄んでるんだろう。
すでに一度体験した空気感なのに、やっぱりすごく、緊張した。本音を言うには言葉が拙くて、言うことが憚られる秘密もたくさん持っている。
でも、それも全部、できるものなら打ち明けたいと、千景は思った。
「ずっと好きだった……お日さまみたいな、日方が眩しくて……」
……だって今日が、日方と一緒にいられる最後の日だから。
「傍にいるだけで幸せだったのに」
一度目は感じなかった後悔と自責と、絶望感が覆い被さるように千景の胸を傷ませる。
「もうそれだけじゃ……満足できない……!」
……自分の中に溢れて止まらない、日方が好きという気持ちを堰き止めることができなくて……。
「日方と……恋人になりたい……っ!」
……結局俺は、日方を殺すんだ。
千景が口を閉じてから少し間があった。
傍で風に揺れる葉擦れの音が、胸をくすぐるようにもどかしい気持ちにさせる。熱い想いが、茹だる体が、やるせなさに変わる。
やがて日方が口を開いた。
しかし、千景は彼が語ることを制する。
代わりに千景が声を出した。
二年経った今でも、あの日くれた日方の言葉は、一言だって忘れてない。
「『僕も千景と恋人になりたい』」
頭の中の、すぐに取り出せる場所に、いつでも置いてある。
「『今までずっと気付けなくてごめんね』」
日方の言葉。
「『思えば僕が苦しい時』」
もう二度と聞けないと思った声色と抑揚と、呼吸を。
「『お月さまみたいに僕を優しく照らしてくれたのは』」
まるで昨日あったことのように思い出すことができる。
「『いつだって千景だったよね』」
……結局俺は未来を変えることなんてできない。
自分の想いに嘘を吐けない。
日方が好きだという気持ちを抑えられない。
千景は涙を隠すように目を手で覆った。
声の揺らぎが落ち着いた隙に、困惑する日方を見据える。
「そう言って、日方は死んだんだ」
……こんなことを言う俺を、日方はとうとう軽蔑するかな。
「日方は明日、死ぬんだよ」
おかしい人って、思うかな。
でもこれは……過去に本当にあった未来なんだ。
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