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「成程。儂はお前さまに一飯の義理を果たさねばならぬ。という厄介な立場にされていた訳か」
やれやれ、若い時分は喰いかねて暮らしに困り、致し方なく見知らぬ他人の世話になる道を選んだが、此度は無理くり食い扶持を与えられて、卑しくもコキ使われる側に成り果てるとはな。
やや痰が絡んだ喉を鳴らして、自らを顰笑い大仰に肩をすくめてみせた老人は、今度はグンと頭を下げ、舞い踊る小女の、殆ど裸である肢体に臨んでも尚、投げ出した足を胡座に組まなくとも居られる静かな股ぐらと、膝に置いた立派な大剣を見比べ、人として正気を保っている事を口を端を歪めて慶びつつ、だが、なんとも言い難い男としての寂しさも感じているようだった。
「‥儂を勃たせる事で自分の女子としての才能のある無しを測るのか、それは世迷い言だと言うのだ」
そうかしら♪
老人の眼前で足を開き腰を振り、挑発を辞めない懿を左肘で押し退け、老人は言葉を繋ぐ。
「‥懿よ、ただの一度も儂の名を尋ねはしないな。もしやお前さまは、本当に儂を路傍の木石の類いと思うてか」
と、問い掛け、懿の自分に望む本心とはどういったものであろう?かと考え、過去の歴史に記憶を巡らす。
例えば、そう。
かつて無芸な自分を養ってくれた偉大主の国の昔話。
斉国がまだ、王ではなく周王朝の“侯爵”位であった頃の荘公光の時代に実在した英雄たちの逸話。
杞殖に華還、隰侯重の三勇士。
自らの名誉に賭け命を落とした。その清さ壮烈さにより後世に名を表す事に成功した話。
いや、懿の願いは寧ろ、彼らではなく彼らの一人、杞還の妻の様な悲しき事実の方なのではないか。
夫の死の信義を貫くため君主相手に盾突き、それによって世に一事を成しても、歴史に名前を遺せなかった彼女の身の上みたいには絶対為りたく無いという強い決意の吐露なのだろう。
要するに懿は懿なりに自らを顧みつつ思考して、歴史に自身の名を刻みつけたいと願っているのだ。
確認したところ、果たしてそうであった。
「あたしは世に名を残したい」
ただの女で世を終えたくない懿の、その気概の良さに感心し合点がいった老人は、懿の食客になることを条件に契約事項を申告する。
「されば、先ず儂の名から覚えて貰おうか。儂は姓は馮、諱は驩。馮驩だ。もし首尾よくお前さまが世にでたら史書の端っこにでも儂の名を冠した伝を頂きたい」
だだし、お前さまが儂の話を解らずとも聴き入れ将来大成したときで構わぬ。
「あなた、‥‥馮驩さんは、あたしの見知るオトコとは違いそう」
そしてコクンと頭を少し下げ、馮驩の申し出を承諾した。
馮驩と細やかな約束をした懿はふと、喰うにも困っていたという馮驩の過去が気になりだし、誰の脛を齧っていたのかと問い質した。
すると彼の口から出たのは、今の世を治める大泰ではなく、昔あったと父上から聞いた国と偉い人、斉国の田文のもとへと臆面もなく養ってくれと転がり込んで住み着いたと云うのだ。
当時の馮驩は今と変わらず見た目も貧相で、真新しい戰場跡で手にした大剣のみ見事だった、まるで風彩ない男だった。
しかし田文は噂通りの大海よりも寛大な心で受け入れ、彼を三千人とも称された食客の一人に加えたという。
その恩義に対して馮驩はといえば、なぜだか日がな一日うまいものを飲み食いしていただけ、兎にも角にも、喰うに困らず夜露をしのげる生活を手に入れたと、そう心中では密かに思っていた。などと嘯いた。
人生を舐めてる。としか思えない老人に、それでも歴史に僅かにでもお互い名を残したいと願う同志に、懿は沸々と興味が湧き始めた。
なにより、若く可愛い女子とみれば腰を振り出しそうな富豪な父よりも、さも立派な人物に見えてしまったのだ。
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