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ひとしきり笑ったあと、彼女はカワヅザクラを見あげた。旬を過ぎたカワヅザクラは、風が吹くたびに、花びらを散らしている。約束の日……一週間前に来ていたら、満開の花が臨めただろう。
「楽しかったね」
名残惜しそうに言い、向井が僕を見つめた。
「内田くんから聞いたよ。追川くん、今、彼女なしでやさぐれているんだって?」
「拓海め」
僕の知らないところで、余計なことを話しやがって。
「別にそういうわけじゃ……。どっちかっていうと、社会に出るから不安なんだよ」
「春先あるあるだ。私も旦那の出張先で、うまくやっていけるか心配」
向井が僕に、シェリーの詩集を差し出した。
「あげる」
詩集が遠くの常夜灯に照らされている。
「……なんで」
「もともと追川くんに渡すつもりで入れたの。中に手紙が入っているよ。『大好きな追川くんへ』って書き出しで」
「嘘つけ」
「嘘じゃないんだな、これが」
夜風が吹き、カワヅザクラが揺れる。花びらが宙を舞う。
「大丈夫。追川くんは昔から、好かれるひとだよ。元気出して」
「……なんだよ。大げさな」
僕は手についた泥を服で払い、向井から詩集を受け取った。
「言い忘れたけど、結婚おめでとう。引っ越し先でも、向井らしく頑張れよ」
気の利いた言葉を贈れなかったが「ありがとう」と言われた。
そして彼女は、車で迎えに来てもらい、家へと帰っていった。
僕は自宅に戻ってから、向井にもらった本を開いた。中表紙に手紙が挟まっていて、本当に『大好きな追川くんへ』という、くすぐったい文面からはじまっていた。元気がない日はこれを読んでくださいと。……ロマン派の詩は壮大すぎて趣味じゃないが、嬉しい。
詩集には偶然、一片の花びらが挟まっていた。濃いピンクの色からして、カワヅザクラのもの。小さな春の証。
僕は桜の花びらをそのままに、古い詩集を閉じた。
(終)
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