初夏のあわいに消える声

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 彼はきっとそれを知っていて、それで別れを告げに来たんだと、何も話していないうちからゆずには伝わって、はじかれたようにその面をあげた。  彼の両目は星を映したようにきらきらまたたいていて、その瞳をのぞき込んでいると、どこまでも遠く果てしない宇宙の彼方を見ている気持ちになった。 「ありがとう、ゆず」  彼の放つひと言に、すべての気持ちが込められているようで、ゆずは何も言えなくなりそうだった。  待って。ここにいて。本当にもう少しだけ。  連れていってなんて、もう言わないから。  ずっとずっと、夢のなかにいて。私を手放さないで。  彼の弱いほほ笑みの裏側に、ゆずを解き放ちたいという真実が見え隠れして、どこまでも優しく世界へ押し出そうとする。その力にあらがうこともできないまま、彼をまだ困らせてみたかった。そして、同時に気づいた。  彼はもう執着していないのに、ずっと見守っていてくれたことを。ゆずの気持ちに感謝していることを。  彼の魂は宇宙に繋がっていて、その遠く果てしないやわらかな闇のなかで見続けてくれたことを。  ゆずに、前を向いてほしいと願っていることを。  ずっと幸せに生きてほしいことを。  何も言葉を交わしていないのに、気持ちの交感ができるのが不思議だった。彼がいつもさみしげだったのは、ゆずを死の影に取り込みたくなくて、それだけが一番の気がかりだったことを、本当はとっくの昔に分かっていた。  それなのに、ずっとずっと思いでに縛られて、縛られたままの自分でいたかったのだ。その先がたとえ、どこにも続かなくても。  気持ちが伝わったのが分かったように、彼はもう一度ほほ笑むと、少しずつその姿は薄れていった。  ハッと気づいたとき、彼はもういなくなっていた。 涙が、夢の名残のように頬に流れ落ちる。  ありがとう。私も、あなたが好きだった。とても言葉では表せないくらいに。  ゆずは初めて過去形で、彼に呼びかけた。  その気持ちは、初夏の向こうへ遠く運ばれる。風が髪を、優しくさらっていく。  もう彼の声を、風のあわいに聴くことはないだろう。  彼が地上にいないことが分かって、ゆずは手向けた花束の花弁がかすかに揺れるのを見つめた。  もう、ここを訪れることもない。ゆずは、その冷たく明るい萌芽が心の奥深くで兆すのを、静かに胸の底で感じていた。
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