初夏のあわいに消える声

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 辺りは桜が散ったあとの初夏が始まる空気を含んでいて、風はまだ冷たくてすがすがしく、こんなにも美しい季節に旅立っていったことが、彼の最期の優しさに思えてくる。  鼻孔をくすぐる風には、萌え出づる若葉や、新芽の気配や、草木の生きる喜びみたいなものが含まれている気がして、たとえばこれが秋や冬だったら、ゆずはとっくに潰れていただろう。死期を決められるなんて思っていないけど、ゆずは、春の終わりに毎年お墓参りに行くことを、彼が予期していたとしか思えない。  さみしくないように。いつの日か、初夏に満たされた空気のなかで新しい息吹とともに、立ち直っていくことができるように。そんな想像にひたってしまうのは、やはり彼が優しかったからだ。  彼の優しさについて考えると、きらめきを取り戻しかけていた世界の一端は、喪失の傷口にひらかれて、あっというまに涙でくもってしまう。  大丈夫。まだ、こんなにもかなしい。  忘れたくないのに、この風は私に忘れていいよと、何度も語りかける。忘れてしまえば、この感情も少しずつやわらいで、海岸の砂のように小さな模様を描くだけのものになるのだろう。そうすれば、こんなに泣きたくなることもないと分かっていても。ゆずはいつまでも、このかなしみの底に漂っていたかった。それだけが、彼が世界に存在した確かな証のようで、ゆずはそれを手放してしまうことを、心のどこかでとても恐れていた。  バス停は空いていた。  平日のラッシュを過ぎた時間帯は、わずかな学生と年配の人が数人乗るだけだ。時間より遅れてバスはやってきて、ゆずはこの日のために用意したパスケースを、入り口の運賃機にピッとかざしてみせた。  雲が刷いたように紺碧の空へ薄く広がっていて、思いでを抱きしめて歩くのにちょうどいい日和。懐かしい絵画を眺めているみたいに、どこかで見た景色だな、と思う。風に、日差しに、彼はまぎれていて、ときどきゆずの髪を揺らしたり、大丈夫? と声をかけたりする。その声にまた泣きそうになりながら、彼の魂が純度の高い宝石のように透明に澄んでいくのを、ゆずは見守ることしかできなかった。  現実で接していたときよりも、ずっとずっと彼は優しくて、もう優しくしかいられない彼は、人間らしさ――欲望や暗い哀切や、感情の矛盾――をどんどん失っていく。死んで会えなくなると、もう喧嘩してぶつかり合うこともできなくなるんだな、と当たり前のことを今さら思い知って、世界じゅうに存在するあまたの恋人や夫婦が、ささいなことで仲たがいすることさえ、とても羨ましかった。
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