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第1話・婚約破棄
こめかみがピクリとひきつる。
「今、なんとおっしゃいましたかしら」
そう問うと向かいに座る私の婚約者は、困ったように眉を下げた。
王宮の豪華絢爛な一室。恐らく近隣の王族を迎えるような、最高級の貴賓室だ。壁際には侍従侍女がずらりと並んでいる。
私の婚約者はこの国の第二王子ラウレンツ・ゴルトベルク殿下。二十五歳。婚約して一年。今日が初対面。
短く癖の強い金髪はボリューム満点、精悍で作りが派手な顔、高めの背、体は服で隠れているけど恐らく細マッチョと思われる。手も大きくて、よく剣を握れそう。
一言で彼を言い表すと、『稀に見る美男!』だ。噂には聞いていた。彼の通ったあとには恋に落ちた令嬢たちが点々と倒れ伏している、とか。バカらしいと思ったけれどこの美貌っぷりだと、あながち嘘ではないのかもしれない。私は興味がないけど。
公爵令嬢たる私が彼の婚約者になってしまったのは、なんとも悲しい経緯からだ。ラウレンツ殿下には元々立派な婚約者がいらっしゃった。隣国の美人と誉れ高い姫君。ところがこの姫君が従者と駆け落ちをしてしまったらしい。
そして可哀想なラウレンツ殿下は、更に不幸なことに新しい婚約者を見つけることができなかった。近隣に未婚、もしくは婚約者がいない姫君がいなかったのだ。
齢五歳の姫と婚約をするか、国内貴族から適当に見繕うか――ということになり、結果、私が見繕われたのだ。
ふざけるな!と声を大にして言いたい。
私は『自由に生きる』が信条で、父もそれを認めてくれていた。――正確に言うと、諦めていた、だけど。
なのに降ってわいたこの縁談。しかも予想外のことに、あっさりまとまってしまった。
私は病弱で有名で、領地を出たことがない。到底王子妃なんて務まらない。そう主張したのだけど、私の他に釣り合う身分と年齢の令嬢がいなかったらしい。
まあ、公爵令嬢で二十歳を過ぎて婚約者すらいないというのはかなり珍しい。でも仕方ないではないか。私は病弱なのだから。
「ですからヴァネッサ殿」
ラウレンツ殿下が惚れ惚れするような美声で私の名前を呼ぶ。視界の端で侍女がほうっと恍惚の表情でため息をついている。いや、あなたは彼を毎日見ているはずだよねと指摘したい。それほどまでに彼の魅力は破壊力抜群ということなのかな。でもなぁ。
「あなたとの婚約を破棄させていただくのです」と殿下。
この言葉に、私のこめかみがまたしてもピクリとする。これはもう、笑顔を保たなくてもいいわよね?
「そのご提案自体は大歓迎です」
どこからともなく『大歓迎!?』との驚きの呟きが聞こえてくるけど無視。
「ですがなぜ、今このタイミングでおっしゃるのでしょう。もっと早くに伝えてくださるべきではありませんか。殿下の誕生会に出席しろと命じてきたのは王宮側ですよね。私が都に来るのに何日かけて領地からやって来たと思っていらっしゃるのでしょう?」
「魔法を使って三日。本来の日数の半分以下とか。素晴らしい魔術師を抱えているようだ」と殿下。
「……そうです」
「今年は魔獣被害が多いから、旅は短期間で済むに越したことはありません」と殿下。
ご存知だったことに驚き、ちょっと気勢を削がれる。でも言いたい文句はもっとある。
「それに殿下の婚約者として失礼があってはならないと、参加予定の全貴族の顔と経歴をわざわざ覚えましたし」
「ありがとうございます」
「立ち居振舞いとダンスを学び直しましたし」
「美しい所作ですね」
「ドレスや装飾品をたくさん作りましたの」
「お詫びに代金は私がもちます」
「とうに支払い終えています! 私が言いたいのはもっと早くに破棄してくだされば、これらのことをやらなくて済んだ、ということです。殿下のためにどれほどの時間を費やしたことか」
この馬鹿馬鹿しくも王子の婚約者としては必要なことをするために私が犠牲にしたことを思い、胸が苦しくなった。
「それは感謝の念に絶えません」とキラキラ王子が神妙な顔をする。「正直に言いますと私の婚約者という立場が、あなたにそんな努力を強いるとは考えていませんでした」
「……都に住む令嬢がたならば元より身につけていることでしょう。ですが私は体が弱く、社交界デビューもしていないのです。私がこの婚約にどれほど困惑したか、誕生会出席のために何が必要だったか、想像してもらいたいものですわ」
「あなたは真面目なのですね。良い方だ」
にこりと殿下。む。そう来たか。
「いくら私が世間知らずの引きこもりとはいえ公爵家の娘です。父の顔に泥を塗るわけには参りません」
「確かに」
「でも殿下がもっと早くに婚約破棄をしてくださっていれば!」
「それは申し訳ない。というより、そこを非難されるとは思いませんでした」
「……」
確かに。現在の私は二十三歳。公爵令嬢としては行き遅れと謗られてしまう年頃だ。ここで婚約破棄なんてされたら、世間様はヴァネッサにはよほどの問題があるだろうと噂する。嬉々として。
私はそんなことは構わないけど、普通の令嬢なら気にするはずだ。
そしてラウレンツ殿下はそうしたことをよく理解しているみたいだ。
――その上で婚約破棄を告げているのか。
「……私はこのように弱い体ですから結婚は生涯できぬものと思っていました。だから破棄はよいのです」
「そうそう、あなたはどちらが悪いのですか。生気に溢れているように見受けられるのですが」
殿下は無垢な顔をしてストレートに尋ねてきた。
「これだけの耳目がある中で、殿下は私のデリケートな欠点を晒せとおっしゃるのですか」
「ですがあなたとふたりきりになる機会はないでしょう?」
貴族社会では未婚の男女がふたりきりで会うのは非難される行い、といマナー教師から習った。
「だとしても婚約が破棄される以上、殿下と私とは赤の他人です。令嬢の体の秘密を暴こうとするのは紳士的ではありませんね」
ラウレンツ殿下はハハッと笑い声を上げた。
「確かに。私の質問に答えない者などいないから、不躾だとは気づかなかった」
言葉には傲慢さがある。だけれど笑顔は人懐っこくて悪い感じではない。なんとはなしに、殿下はそれほど悪い人ではないのかもしれない、という気になる。
「身勝手な婚約破棄を宣告したのは私のほうなのに、失礼でしたね」と殿下。
私、しっかりうなずく。でも、まあ、病弱というのは嘘だから、私も大概失礼なんだけど。言わなければわからないだろう。なにしろ十年近く世間には『病弱令嬢』で押し通している。
「せめても、ヴァネッサ殿からの『もっと早くに』という言葉に返答するべきてした」
と反省したらしき殿下が神妙に言う。
そうよそうよ、と心の中で責める。
「実は」と殿下。「あなたとの婚約が成立したあとに運命の人に出会ってしまいました」
「『運命の人』……」
やや大袈裟に、いや、ものすごくチープに聞こえるその言葉を繰り返すと、ラウレンツ殿下は真面目な顔でうなずいた。
「素晴らしい人です。私は心底その人を愛しているし、これは真実の愛なのです」
壁際の侍従侍女たちが無言ながらも慌てふためいている。
「とはいえ私は王子ですから」殿下は周囲の動揺を気にすることなく話を進めた。「愛だの恋だので結婚を決めてはならない。ましてやあなたには無理を言って婚約を成立させた。それを私の個人的感情で反古にするのは、あまりに非礼すぎる」
「つまり殿下は私情は押し殺して結婚するつもりだったけれど、土壇場になってやはり真実の愛を優先したくなった、ということですね」
「ええ」殿下が苦笑する。「話が早くて助かります」
「このことを陛下は?」
「誰もなにも知りません。反対される前に破棄してしまおうと思いましてね」
「なるほど」
壁際の一団の狼狽具合がますますひどくなっているし、何人かは部屋を出ていった。どこかに報告しに行ったのかもしれない。
「このようなことをすれば」と殿下。「私に非があるとはいえ、あなたの評判は傷つくでしょう。世間は真実よりも面白い作り話を好む」
そのとおりとうなずく。
「ですから私にできる限りのフォローはします。慰謝料の支払いはもちろんのこと、お望みならば新しい婚約者の選定もしますし、仲人にもなりましょう、新しい婚約にかかる費用の一切も負担します」
「別に――」
「すべての償いが終わったら」と殿下が私の言葉を遮る。「私は王族から離脱します。半分は婚約破棄の責任をとるため」
そこでラウレンツ殿下はにっこりとし、口を閉じた。残り半分について語るつもりはない、ということだろう。とはいえ語られなかったことの想像はつく。殿下の真実の愛の相手が王子妃にふさわしくないのだろう。
「ラウレンツ殿下は大変に人気があると聞いています。王族離脱の理由に私の名前をあげられては、あなたさまの支持者から恨みを買うかもしれません」
「確かに。ではそちらの件は無しにしましょう」
「再婚約の意思はありませんから、それに関することも必要ありません。慰謝料も結構です。その代わりに我が領に寄付をください」
「災害の?」
「はい」
つい一週間前のことだ。領地の農村地帯で、数十年に一度と言われる大豪雨が三日間も続き、堤防が決壊、灌漑設備も破壊されてしまったのだ。
現在被害状況の確認作業中だけど、復興には相当な金額がかかることは確かだ。公爵家の財産で賄えるとはいえ避難民の支援もあるし、寄付があればありがたい。
ちなみに父と兄は現地で陣頭指揮を取っているので、王宮に来たのは私だけ。母は私が八歳のときに亡くなっている。随行者はメイドと護衛をひとりずつ。悪意ある貴族からは、みすぼらしいと嘲笑されるだろうけど、国王ご一家は誰ひとり嘲らなかった。
「では今すぐに」
そう言ったラウレンツ殿下はまだ狼狽している侍従のひとりを呼び寄せて、紙とペンを用意するよう命じた。即断即決即行動の人らしい。
「それともうひとつ」
「なんでしょう」
「殿下の誕生会に予定通りに出席させてください。いち招待客としてで構いません」
「当然ではないですか。婚約を破棄したからといって招待を取り消したりはしませんよ――しかし何故でしょう。なにか用事でも?」
「ええ。父と兄に旧知の方々への挨拶を頼まれています」
そのついでに被害の状況を正しく宣伝する。それによって、我がロランディ家にとっての最優先は災害対策で、だから貴族の付き合いは後回しになると印象づけておくのだ。
「あと今回のこととは別で、殿下に協力をお願いしたいことがありました」
殿下が『どうぞ』と促してくれる。
「治水専門の土木学者を紹介していただきたいのです」
「では兄に頼みましょう。私は恥ずかしながら疎いのです」殿下は侍従を見て、「時間調整を」と命じた。再び私に視線を戻し「他に私にできることは」と尋ねる。
「このふたつだけで十分です」
そもそも王都での滞在も当初の自邸から、王宮にと変更になっていて、これは父不在の私を案じた国王陛下のご配慮らしい。ほぼ強制的に成立した婚約だけれど、礼は尽くされている。その上、破談は喜ばしいことなのだ。ラウレンツ殿下にこれ以上望むことはない。
「滞在は三週間でしたね」
誕生会を挟んで前後二週間ずつの予定だった。けれど豪雨災害のため、到着を一週間遅らせた。そして婚約破棄――。
「ええ。ですが婚約が解消されるなら、組んでいた予定の大半が必要なくなりますよね。出発日を繰り上げます」
「その判断はお任せしますが、滞在中は私がエスコートをします」
思わず瞬きをしてしまう。婚約破棄をした相手をエスコート? おかしくない?
だけれどラウレンツ殿下は至極真面目な面持ちだ。
「婚約の解消はあなたに問題があってのことではないとのアピールになりますからね」
「ですが真実の愛の方が不快に感じると思います」
すると殿下は『ああ』とため息にも聞こえる声を漏らした。どこか物悲しげに見える。
「都にはおりません。気になさらずに。――というよりも我が儘を受け入れてくれた婚約者に誠意的な対応ができないような男では、運命の人に見限られることでしょう」
なるほど。
「お相手様はきっと素晴らしい方なのですね」
「ええ!」
殿下の声が一段高い。きっと心底彼女を好きなのだろう。
「ですが」と殿下。「ヴァネッサ殿もなかなかに面白い方だ。婚約者としてではなくお会いしたかった」
「そうですね。私もです」
令嬢たちが憧れる美男の王子なんて、鼻持ちならないかつまらないかのどちらかだと思っていた。だけど思いの外好感を持てる。
「あなたに無礼を働く身で言えたことではありませんが、今から新たな関係を構築できるでしょうか」
「いいですね」
「ではお友達から再スタートにしましょう」
ラウレンツ殿下がぐっと身を乗り出して右手を伸ばす。私から届くかどうかギリギリの距離だ。おしりを椅子から落ちそうな縁にまで進めてぐっと手を伸ばす。届いた。
しっかりと握手をする。
――念のために手袋をしてきてよかった。でなければ私の手のひらが固く、マメばかりと知られてしまうところだった。こんな手は病弱令嬢の手としてはおかしいもの。
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