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四
東京、神田神保町のショウの部屋。軽い夕食を済ませ、またいつものように窓から街の明かりを眺めていた。首都高を走る車のテールランプが瞬く。人々の営みが感じられると同時に、言われようのない焦燥が顔を覗かせる。上京して十年が経つ。何一つ解決されたものなど無い。警察官になれば闇の一部に近づけるのではないかと思っていた。しかし現実は違った。このままここにいても、事態が動くとは思えなかった。何かきっかけが欲しかった。
そんな矢先、ショウの携帯電話が鳴った。
「サエキキョウコですけど、ご無沙汰しております。実は先日、兄から電話がありました。台北からでした。新しい携帯電話からだそうです。一応、タザキさんにお知らせした方がよいかと思って」
どうりで繋がらないはずだ。ショウもサエキキョウコから聞いていた番号に何度もかけてみたが、すでに使用されていなかった。自分とは連絡を取りたくない理由があるとしか思えなかった。弟が望んでいないものを、こちらから無理に押しかけたとして、結果は後悔するものになることをショウは知っていた。
「で、弟は何て?」
「はい、お兄さんは元気かって心配しておりました。だから私、いけなかったかもしれませんが、お兄さんが警察官になられたって話をしてしまいました」
この娘は、自分の兄が台湾マフィアの一員であることなど知らないのだろう。
「別に構いませんよ。変な嘘はつきたくないし、隠していても仕方のないことですから。それより・・・・・・」
やはりサエキキョウコの心情が気になった。
「キョウコさんは、リュウが今、何をやっているのかご存知なんですか?」
「ええ、何となく、ですが」
「そうですか、ではうかがいますが、弟は今、どこにいて何をしようとしているのでしょうか?」
サエキキョウコが口を噤んだ。そしてポツリと溢した。
「やはり、兄はいけないことをしているのでしょうか?」
今度はショウが言葉を失った。
「一度、久しぶりにお会いできませんか?」
「でも、私、今はお店の方が忙しくて」
「では、日本橋のお店にお伺いしますよ。また二名で予約を入れてください」
「二名。ああ、お兄さんの彼女さんですよね、前に一度お会いした」
「ぜひ、そうしてくれないか。宜しく頼む」
「承知いたしました」
それを聞いて、ショウが通話を切った。
一週間後の土曜日、ショウはユキナを連れて茅場町にいた。ユキナは一度仕事に復帰したが、あの横浜中華街での事件以来体調が優れない日もあり、芸能活動を控えていた。家に引き籠りがちで、時々ふらっとショウの部屋を訪れることはあっても、積極的に外出することはなかった。芸能界というところは移り変わりが激しい世界で、体調不良を理由に番組を降板するユキナに周りは冷たかった。全くオファーが無くなったわけではないが、毎週のようにバラエティー番組に出ていたユキナの姿を見かけることが少なくなった。けれども、ユキナ本人は心のどこかでホッとしていたのも事実だった。これまでは街を歩くのも気を遣った。ましてショウと一緒にいるところを狙う週刊誌を気にして、ユキナのイライラも限界に近かった。それが今では、勿論、気づいて声をかけてくれるファンや、サインを求められることも多かったが、何と言うか、熱病的な浮ついた雰囲気ではなくなっている。これが次々にアイドルやスターが移り変わる芸能の世界というやつなのだ。ユキナは珍しく地味なブラウスにジーンズ姿で現れた。
「悪りぃ、待った?」
「いいや。お前、今日も引き籠ってたのか?」
「ああ、何もやる気しないんだよね。今日、お前に誘ってもらわなかったら、一週間引き籠ってた」
ショウが苦笑する。
「無理しなくてよかったんだぞ。サエキになら俺一人でも行ける」
ユキナが首を横に振る。
「いんや、お前の弟さんのこと気になってたし、あの妹と母親にもう一度会ってみたかったし」
「そうか、ならいいんだが、この先は明るい話ばかりではない。弟が台湾の裏社会に関係しているかもしれない」
「そうなのか?」
以前新宿歌舞伎町で自分を助けてくれた男の雰囲気と、横浜中華街で見たショウの姿をだぶらせた。不思議と裏社会に関係するショウの弟への嫌悪感は無かった。
「ショウ、一つ聞いてもいいか? まだお前が警察官になる前、アタシ、歌舞伎町で道に迷ったことがあったんよ。そん時にチンピラのような奴らに襲われそうになって、そんでアタシを助けてくれた人がいたんだけど、アレって、お前じゃないよな?」
ショウが首を傾げた。
「俺じゃない。でも、どうしたんだ今頃?」
「だよな、やっぱお前じゃないよな。でも、お前に雰囲気がそっくりだったんよ。横浜中華街でお前に助けてもらった時、二人がシンクロして見えたほどだもん」
ショウは何も答えなかった。
日本橋『サエキ』は以前と変わりなく、静かに明かりを灯していた。変わったといえば、お上が母から娘のキョウコになったくらいで、雰囲気もそのままだった。
「懐かしいぜ、あの時はお前に弟がいるって聞いて、びっくらこいちまったよな」
「そうだったな、お前もまだタレントとして売れる前だった」
「あれから四年が経っちまったのかよ。歳とるの早過ぎ」
ユキナは感慨深げにサエキの門前を灯す灯篭を見ていた。横顔を見つめる。学生時代の面影は残しているが、芸能の世界に入り化粧も洗練されたのか幼さは影を潜めている。昔からガサツで言葉は乱暴、女らしさを感じることなど無かったが、夜風になびく長い髪、風呂上りの石鹸の香り、胸の鼓動を聞いた。
「どうしたんだ? ゴミでもついてるか?」
「いや、なんでもない」
「ああ、腹減った。メシにしよ、メシ」
ショウよりも先に暖簾をくぐる。ユキナらしい。頬が緩む。ユキナの小さな背中を見つめながら、こんな幻想なら見続けていたいものだ。ユキナが扉を開け、ひょいと顔を覗かせた。
「あっ! ミウラユキナさん? え? どうして?」
とサエキキョウコの声がする。どうやら以前会ったショウの「彼女」がタレントのミウラユキナだと気付いていなかったようだ。店にいた他の客もその声に気が付き、少々賑やかな出迎えを受ける羽目になってしまったが、そこは日本橋の老舗料亭である。上品に静かに二人を個室に導いた。
「お兄さんの彼女さんがユキナさんだったんですね。大変失礼いたしました。料理研究家のミウラユキナさんに来ていただけるなんて光栄です」
ユキナが顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。
「いやいや、そんな、アタシなんてたいした料理も作れないのに、こんなになっちゃって。本人が一番戸惑ってますって」
「でもユキナさん凄い人気じゃないですか! 私は以前お会いしていたものの、失礼ながらうる覚えでして、確か綺麗な人だったなぁとは思っていたんですが、まさかあの時のお兄さんの彼女さんだったなんて、本当に失礼いたしました」
ユキナが顔を真っ赤にした。
「いや、とんでもない。こう見えても、自分で言うのもなんですが、ガサツを絵に描いたような女でして、はっはっはっ」
ショウが苦笑している。しかしその表情は穏やかだった。少しづつ元気を取り戻して行くユキナを見て、今日ここに連れて来て良かったと感じていた。
「すぐにお料理ご用意しますから」
サエキキョウコが襖を閉めた。確かにこの店も以前より明るくなったように思う。お上が若いキョウコに代わったことで、華やいだせいもある。悪く言えば少し軽くはなったが、よく言えば「軽み」のような日本橋本来の江戸情緒とモダンが融合している。料亭のような格式ばったところにこそ「新しさ」が必要なのだと思う。
「ショウ、何さっきからニコニコしてんだよ。まさかキョウコちゃんのこと見て喜んでんじゃないだろうなぁ?」
「バカなことを言うな。確かにあの子は可愛いが、血はつながってなくても俺の義理の妹だ。俺はな、お前の顔を見ていたんだ」
「アタシの?」
「いつものお前らしさを取り戻しつつあるようだな」
ユキナが顔を紅らめる。
「何言ってんだよ、アタシはとっくにあんな事件なんか吹っ切ってんの。心配し過ぎだっつーの」
ショウが微笑している。
「でも、あんがとな。ショウ、アタシ元気出てきた」
「その調子だ。お前は元気だけが取柄なんだからな」
「あっ、言ったなショウ。そんなこと言うと今夜エッチさせてやんないかんな」
ショウが苦笑した。以前のユキナに戻りつつあるのは確かなようだ。ユキナは料理もガツガツ食べた。
「こんなの上品に食ってられますかっつーの、肩が凝るぜ」
これにはショウも声をあげて笑ってしまった。さすがユキナ。お前は本当は、こうでなくっちゃ。
食後、ゆっくりと茶を飲みながら、サエキキョウコと話した。
「先日、弟が台北にいると」
「私に電話をくれた時は台北からだと言ってました。でも、夏頃には上海に行くって」
「上海か、理由は言ってませんでしたか?」
「さぁそれは、でも連絡はまた取れなくなるだろうって。危険なことに巻き込まれなければいいんですけど」
ショウが頷く。
「弟は、ハダケンゴという男について何か話してなかったかな?」
サエキキョウコが首を傾げた。
「何も、兄は夏に上海に行くとだけ」
「そうですか」
「でも、声は何となく明るくて元気そうでした。兄って、何か自分が興味があることには、本当に人が変わったようにのめり込む人なんです。一時は大学で珍しい生物の研究ばかりしていましたし。私にはよくわかりませんでしたけど、生物を知るにはまず分子レベルから知らないと、なんてよく言ってましたから」
ショウがそれを聞いて苦笑する。
「元気にやっているとわかっただけでもよかった」
「そういえば、兄、何かを取り戻しに行くって言ってました」
ショウが顎に指を滑らせ、考えを巡らす。
「何かを取り戻すと言ったんですね?」
「ええ、嬉しそうな声でそう言ってました」
「大体わかりました。アイツの考えてること」
ユキナとキョウコが顔を見合わせた。
「今度、弟から連絡があったら伝えて下さい」
ショウが微笑する。
「俺をハブンチョにするなってね」
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