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 オークションルームが一瞬静まり返った。リュウとハダがシャンパンを飲みながら中央の舞台を眺めていた。照明が落ち、スポットライトが灯された。 「いよいよ、だな」 「ああ、映画でも観に来ている気分だ」  舞台中央の床窓が開き、クレーンで地下から本日一枚目の絵が現れる。同時に手元のモニターにも映し出され、その絵の情報を目にし会場が一斉にオオッと沸いた。  ギュスターヴ・クールベ。十九世紀半ばの写実主義を代表する画家である。出品作品はフランス国内で偶然発見されたもので、タイトルは未定。元々はフランスの画商が所有していたものだが、最近盗難にあったばかりだった。特徴としては、明らかに後から加筆されたクールベ本人のサインが入っている。しかしよく調べると、そのサインの他にもう一つ別のクールベ本人のものと思われるサインが存在することが、X線撮影でわかった。実はこの絵には鑑定書が無い。二重サインといういかがわしさと、盗難品ということで、新しい所有者が鑑定を拒んだためだ。それを聞いて会場の雰囲気がにわかに落ち着いた。一気にトーンダウンした会場は雑談が多くなり、そこかしこで傍観者の笑みが漏れている。 「どう見る?」  ハダが左手で鼻と口に手をやり唸った。 「欲しいな。恐らくまともに行けば市場価値で五億、いや八億」  リュウがモニターに食らいつく。 「そうなのか? この自画像、そんなに価値があるのか?」 「確かにモニターで見た感じ、絵具の質感は本物っぽい。だが鑑定書が無い。盗品である以上、落札者が新たに鑑定を依頼しても転売することは難しいのかもしれん」  リュウが頷く。 「だがな、このクールベは相当安く競り落とされるはずなんだ」 「どうしてわかる?」 「まず鑑定書が無いこと。次に盗品であること。更にはクールベ初期に割りと多い自画像であること。そして決定的なのは二重サインがあること」 「で、幾らくらいになりそうなんだ?」  ハダが白い歯を見せる。 「三千万」  リュウが大きく目を開く。 「そんなに価値が下がるのか」 「しかも、真作と認めた上でだ」 「しかし絵画の世界はとんでもないな。価値って一体何なんだと思うよ。頭がおかしくなりそうだ」  ハダが声を上げて笑う。 「五億が三千万になって安い! と思ってしまうその感覚がすでに狂っているのさ。真贋不明なものに三千万出すんだからな」 「で、どうする?」  ハダがニヤリとする。 「いいねぇ、いいねぇ、堪らないね、この感じ。そうさな、誰も入れなかった時点で俺が入れる。人生リスクを取らずして成功は有り得ない。人と同じことをしていては烏合の衆だ。いいか、リュウ、人と違うことをして初めて本物が目を覚ますんだ」 「マジか、凄げぇなアンタ、尊敬するよ」  リュウの瞳が輝いている。 「小老に少しはそれらしいお土産を持っていかないとな。恐らくこのクールベは本物だ。しかも両方のサインが本人直筆だ」 「何故わかる?」 「いいかリュウ、贋作ってのはスマートなんだ。そして、より本物っぽい。そこには人間の本物に見せたいという心理が働く。それに比べてこのクールベは二重サインを残したままだ。そんなの贋作者のプライドが許さんだろう? 少なくとも後のせサインなどする筈がない。それが心理ってもんだ。そして、いいかこの画像をよく見ろ。この盛り上がったサインの絵具のひび割れの幅。詳しく絵具の溶け具合を調べなければ何とも言えないが、恐らく同じ年代に入ったサインだ。筆跡も似ている。本人のサインが入ったものの上に更にサインを入れる奴がどこにいる? これは恐らく本人の描き直しに違いない。赤外線をあてたら、きっともう一枚のクールベが出てくるぜ」  リュウがハダの顔を見つめる。 「俺の顔に何か付いてるか?」  ハダは正面を向いたままだ。 「さあ、面白くなってきたぜ」  ハダが再びモニターを覗き込む。最低落札価格が十万ドルと表示される。ハダが苦笑する。 「出品者も半信半疑なのさ。これはハッタリの価格じゃない。マジな価格だ。競るかもしれない」  ぼそりと呟いた。リュウが不思議そうに首を傾げる。 「価格ってのは実に面白いねぇ、正直だ。世の中で一番正直かもしれない。贋作ってのは、本物以上に本物らしい価格がついているものさ。でなければ、それは贋作ですよって言ってるようなものだろ? だがな、本物かどうか本当に真贋わからない時は、正直な価格が出る。これも人間心理だ」  ハダが指をパチンと鳴らした。 「リュウ、三十万ドルでビッドだ、行くぜ」  ハダがモニターの金額入力画面に数値を入れた。 「たいした決断力だな」 「まぁ、そう言うなよ。俺だって失敗はある。それも腐るほど。もしかしたら単なる贋作に大金払うことになるかもしれん。だがな、俺はそれでもいいと思っている。自分を信じて決断する以外に、他に方法は無いだろ?」 「ああ、そうだな」 「何故、金持ちの所に、より金が集まるか知ってるか?」  リュウがハダを見る。 「それはな、決断できるからだ。判断の正しさ、誤りは当然ある。それは誰にでもある。勿論、運もある。金持ちだって、それなりに失敗する。だが、それ以上に決断もしている。当然成功することもある。貧乏人はなけなしの金を失ったら後がない。だから決断できない。しかし金持ちは違う。失敗したって次がある。だから決断できる。そして、それが当たる。金が金を呼ぶとはそういう意味だ。百発百中の判断なんて有り得ない。一つの成功の裏に、十の失敗があると思って間違いない」 「あんたも、失敗を?」 「ああ勿論、若い頃は失敗ばかりだったさ。親父が死んで、お袋と二人で夜逃げして、金のためなら何でもやった。それこそトイレ掃除から警備員までやって、必死こいて貯めた金で商売始めて、それが失敗して、また一からやり直し、その繰り返しだった。だがな、ようやく俺にも運が回ってきたのが、アダルトDVDの販売会社フロントビジョンを立ち上げた時だ。ちょうどメディアがVHSからDVDへの過渡期でな、俺はいち早く新しいメディアに乗った。そしてそれが当たった。だが、そのフロントビジョンを捨てる決断をして、今、俺はここにいる」  ハダが白い歯を覗かせる。人生が気軽なゲームであるかのような無邪気な笑みである。成功を掴んだ者が、幾らその業界が落ち目だからといって、一度手にした地位や富をそう簡単に見切れるものだろうか? 全てを失って、地べたを這いずりまわった経験がある者にしかわからないことなのかもしれない。リュウがこれまで出会った裏社会の人間は、社会の底辺を舐めてきた者が多い。けれどもハダの場合はそうではなくて、天と地と両方を知るというか、自力で地獄を抜け出した実力と経験を併せ持つ。そのふり幅を俯瞰できる程の笑みなのである。すると次の瞬間、ハンマープライスを告げる鐘が鳴り響いた。入札価格がオープンになる。二十万ドルから競り始め、自動入札にて二十八万ドルまで競り上がった。二位が二十八万ドルで降りた。その瞬間、ハダケンゴが二十八万一千ドルで落札したことがモニター画面に表示された。 「呆気ないものだな」 「まぁそう言うな、感覚が麻痺しているかもしれないが、それでも日本円で三千万近い金が動いているんだ」 「競ったのは誰だ?」  モニターの次点に『CHO KENKOU』の表示がある。 「この男、何者だ?」  ハダが唸った。 「噂ではその名を聞いたことがある。趙建宏。香港の実業家で幾つも会社を経営している。元は華僑らしいが」 「しつこく追っては来ないものなのか?」  ハダが笑う。 「金持ち喧嘩せずっていうだろう? 初めに決めた予算を趙えて熱狂することなどない。少なくとも一流の商売人がすることではない。一喜一憂することなどバカなことさ。サイコパスという言葉を知っているか?」 「ああ、そう呼ばれる奴が大学時代に何人かいた」 「世間的には狂気じみた犯罪者などを思い浮かべるかもしれんが、世界のトップリーダーの中にも、かなりの割合でこの種の人間が存在すると言われている。良く言えば、感情に左右されない強靭な精神力と頭脳を持つ。悪く言えば情をかける意味を認めない冷酷さを持つ。彼らはそれを合理的と呼ぶらしいがな。奴らは人の死すら合理的に考える。涙は単なる水なんだ」 「涙は単なる水、か。面白いことを言う」 「奴らにとって金は単なる数値でしかないのかもしれない」 「まるでAIのようだな」 「AIは人間が作ったものだが、今や人間の脳がAIに近づこうとしているなんて矛盾した話だ。研究者が理想を求めて、AIを人間の脳に近づけようとすればするほど、逆に人間の脳がAIを理想としてその能力に近づけようとするとはな」 「理想って何だ?」 「さあな、イデア的なものかまたはAIの極限」 「つまらん水掛け論だな」 「まあな」  ハダが頷く。リュウが落ち着き払って言う。 「この世に真実なんてない。究極なんてものもない。生物学的に言わせてもらえば、この世は多様性以外の何ものでもない。一つの物質、現象に意味など無いし、それこそ俺たちだって、無限分の一の確率で存在しているただの物質でしかない」  ハダがふと顔を上げた。背筋に冷たいものが走った。コイツは日本にいる兄と似ているかと思いきや、いや待てよ、と思う。 「お前、マフィアにしておくには実に惜しい」 「何を今更」 「気にするな、独り言だ」  リュウが頬を緩める。 「生物学は案外面白いぞ」
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