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七
六月、上海行きを目前にして、ショウがユキナを神保町に呼び出していた。ユキナは芸能活動を再開し、また以前のように忙しくなりつつあった。ショウに会うのも久しぶりだった。逆にショウは所轄から本庁に移動となり、上海調査の準備もあり、夜は空いていた。午後七時にショウの部屋で待ち合わせ、行き付けの餃子専門店『スヰートポーヅ』で夕飯を食べながら、今回の上海行きについて話すことになった。ユキナが席に着くなり、店の奥に向かって手を振る。
「お母さん! とりあえずビール二本とグラス二つね」
と慣れた口調で注文する。そこそこ顔の知れた有名人だからというのもあるが、この店はユキナのお気に入りで、暇さえあれば通っているのだ。今ではユキナが注文を口にする前に、勝手に「大皿ライスご飯大盛」とオーダーが入るようになった。
「お前、常連扱いじゃないか」
「まあな、しょっちゅう食ってんから」
満面の笑みを浮かべる。すぐに瓶ビールとグラス、炒った豆が出てきた。
「何だよ、話って?」
「ああ、今週末から上海に行ってくる」
「上海? 何しに?」
ショウが苦笑する。
「捜査に決まってるだろ」
「ん? 所轄署でも海外行くことあるのか?」
「所轄署ってな、お前、いつからそんな言葉覚えたんだ? 俺が本庁に移動になったこと言ってなかったか?」
「あ。悪りぃ、悪りぃ、知ったかぶりで。最近刑事ドラマとかよく観てんから。そういやショウも刑事なんだよなぁって思ったら、前は興味無かったんだけど、ここんとこ急に面白くなっちゃって」
「ドラマと一緒にすんな」
横浜中華街での事件以来、そんな軽口を言えるほどユキナの心が回復していることに安堵した。しかしユキナは口を膨らませ、表情を硬くした。
「わかってんよ、そんなこと」
再び横浜中華街での事件を思い出しのかもしれない。あの事件はユキナの心に傷を残した。あの日、ユキナのファンだったトミタアキラに誘われ、食事に行った先で台湾マフィアに狙われた。ユキナもトミタアキラも男たちの前に成す術もなかったが、たまたま台湾マフィアを尾行していたショウが見つけて二人を救った。ユキナは自分の軽率な行動で、一般人であるトミタアキラを危険な目に合わせたばかりか、自身の身の危険と恐怖を感じて、しばらく芸能活動を自粛した。そんな出来事があったのである。二人の間にそれぞれの思いが交錯し、言葉が途切れかかった時、それを見計らったように餃子が運ばれてきた。
「お、来た、来た、待ってました! 大皿ライス」
ユキナが満面の笑みを浮かべる。ショウが溜息をつく。
「普通、女子は小皿だと思うがな。お前のファンが見たら泣くぞ」
「何言ってんだよ。基本、大皿に決まってんだろ。それに誰もアタシのことなんて見てないし」
ショウが顔を上げると、通路を挟んだ隣のテーブルの大学生らしき四人組が、チラチラとこちらを見ている。
「そう思っているのは、お前だけのようだがな」
「で、何でアタシが大皿食ってんのに、男のお前が小皿なわけ?」
ショウが苦笑する。
「お前みたいな鉄の胃袋持ってりゃ別だがな。俺も今年で三十歳なんでな、そんなには食えん」
「何をそんなおっさんみてーなこと言ってんだ。ウチのヒデユキより食が細くなってんぞ」
「そう言や、ヒデユキの奴、元気か?」
「ああ、相変わらずゲームばっかやってんけど、最近はオークションサイトにハマっているみたいで、わけのわからん荷物がいっぱい家に届くぞ」
「オークションが人気なのか?」
「ああ、今のネットオークションってスゲーのな。何でも売ってんだぜ。土地とか家まで出品されてんの。ちょっと前はピカソの絵が出たとかで大騒ぎになってたし」
ショウが「ふうん」と気の無い返事をした。ビールをグラスでちびちび飲みながら、ユキナが餃子で口を膨らませているのを見ていた。
「いつも思うが、ホントお前って美味そうに食うのな」
「ん? そうか?」
ショウが頬を緩める。
「で、上海に行くんだろ? どのくらい?」
「ああ、長くて一ヶ月ってとこかな」
「はあ? 一ヶ月だ? そりゃまたずいぶんと長いな、一人か?」
「いや、三人で行くことになった」
「ふうん」
ユキナが箸を置く。
「あの娘も一緒ってわけだ」
ショウが思わず苦笑する。どうして女の勘というやつは、こうも鋭いのだろうか?
「いや、男三人だ、心配するな」
「嘘つけ、ショウ。お前の顔に書いてあんぞ、若い娘と一緒で嬉しいなーって」
ショウは観念して、手を合わせた。
「すまん、上層部が勝手に決めたことなんだ」
ユキナが腕組みして低く唸った。
「何か策略を感じる!」
「そんなわけないだろ」
「いんや、女の勘ってやつ」
再び食べ始めた。そしてニヤリと笑った。
「ショウ、今晩は、お預けだな」
翌日の朝、二人で部屋を出て、別々の電車に乗ったつもりだったが、思いがけず本庁のロビーでユキナとサヤカが何やら話しているのを見てしまった。その様子を職員が不思議そうに横目で見ながら通り過ぎて行く。ショウは二人に気付かれないように、そっと裏口から外に出た。「やれやれ」と思うが、どうしようもない。
ユキナは朝、ショウと一緒に部屋を出た後、一度は都営新宿線の電車に乗ったが、新宿辺りで急に昨日のことが気になりだして、丸ノ内線に乗り換え、霞が関に来ていた。昨夜はショウに自分の体に指一本触れさせなかった。本気で怒っていたわけではない。ちょっと寂しそうにしているショウを見るのが面白くて、母性が掻き立てられた。互いを知ってから十年。マンネリ化してきたとは思わないが、この辺で少し変化を持たせたいという思いと、ホンダというまだ二十四、五の若い娘への変な対抗心が芽生えていた。そのホンダという娘は、恐らく若さを全面的に出してアピールしてくるに違いない。自分はその点は悔しいがその子に負ける。けれども自分は二十歳の頃からショウだけをずっと見てきた自負がある。向こうはどう思っているのか知らないが、自分はちょっとだけ有名人だし、熱烈なファンだっている。でも不安が無いと言えば嘘になる。そう言えばホンダという娘の顔をまだ見たことがない。ユキナは急に思い立って、気づいたら桜田門にある警察庁本庁に来ていた。
「あのう、すみません。ホンダさんっていう女の方いらっしゃいますか?」
受付の女性に言うと、すぐにユキナの顔を見てハッとしたが、あくまで冷静を装い、咳払いした。
「何課のホンダでしょうか?」
ショウからその子の苗字しか聞いていなかった。
「ええと、こちらにタザキショウというものがいると思うのですが」
女性はわかったらしく、「ああ」と言って頷いた。
「今、お呼びしますので少々お待ちください」
内線を繋いだ。その間、ユキナはロビーでしばらく待っていた。ショウが呼び出されて自分に会い、気分を害するのではないかと不安になった。ガラスに映る自分の顔を見た。きっと輝いてはいないだろう。ショウに会う前に帰ろう。そう思って立ち上がろうとした時、思いがけず肩越しに女の声がした。
「私に来客って、あなたかしら?」
ユキナはその口調にムッとした。振り向くと女がハッとして表情を強張らせた。もの凄い美人ではないが、ショートヘアでこざっぱりと清潔感があり、キリッとした眉と口元のホクロが印象的な女性だった。なるほど、ショウが好きそうなタイプだ。
「ホンダさん?」
「はい。初めましてホンダサヤカです。ミウラユキナさんですよね? ショウ先輩からお話は伺っております」
「ショウ先輩だ? 伺っております、だ?」
と言いかけたが、よく見ると唇が微かに震えている。強がりは言っても、年上のユキナに対抗しようと必死なのである。その姿が可愛くて、ユキナは思わず微笑した。
「制服じゃないんだね?」
サヤカは身構えていたが、肩透かしを食らったような気がして、心にぽっかりと穴が開いた。
「ええ、所轄と違って本庁の職員は皆私服なんです」
するとユキナはニッと笑った。
「出た! 所轄! カッコいい」
サヤカが首を傾げた。
「すみませんが、所轄のどこがカッコいいのでしょうか?」
「ははは、そんなマジに質問されても困っちゃうけどさ。へえ、あなたがねぇ」
ユキナが腕組みした。
「何がおかしいのでしょうか?」
「悪りぃ、悪りぃ、でもあなたって真っ直ぐな感じだよね。まぁショウが気に入るのも無理ないな」
サヤカが顔を紅らめ、口をポカンと開けた。ユキナの笑顔が眩しかった。相手はタレントとはいえ、同性でこんなに心惹かれたのは初めてだった。
「上海に一緒に行くんだって?」
「はい。でも、それはれっきとした捜査ですから」
ユキナが頷いた。
「おう、勿論だぜ! アタシたちの税金使って行ってくるんだかんよ、しっかり悪いやつ捕まえてきてくれよな」
ユキナが笑うと、サヤカもつられて笑ってしまった。
「ユキナさんって、テレビで観たそのままなんですね」
「ん? そうか?」
ととぼけるが、内心では「この小娘、後でシバいたろか!」と思う。けれども何だろう、この警察組織と似つかわしくない、ほっこりとした笑顔。ユキナに妹はいないが、もし仮にいたとしたら、きっとこんな感じだろうかと想像した。しかし、サヤカの次の言葉でユキナの闘志に火がついた。
「私、オバサンには負けませんから」
ユキナの目が点になった。
「は? オバサンだ?」
眉間にシワが寄る。続けてサヤカが言う。
「三十歳はオバサンです。シワ凄いですし」
「は? はぁ? 何だ、この小娘、黙って聞いてりゃ」
と言いかけて、ユキナは一度深呼吸した。
「ようし、受けて立とうじゃねえか、この小娘」
「私、小娘じゃありません!」
ユキナがニッと笑った。
「まぁいい、上海でも何でも行ってきな! 勝負はそれからだ」
ユキナの鼻息は荒かった。
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