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八
クールベの油彩画をハダケンゴが落札した後、オークション会場は次の出品の準備で一時休憩となった。ハダは落札同意書にサインし、入金の手続きをとった。絵は上海の港に戻った後、厳重な警備とともに空輸されることになっている。
「すっかり酔いが醒めちまった」
「まぁ、そう言うな。せっかくの余韻が台無しになるだろ」
「俺はもう一杯いただく」
リュウがシャンパンに口をつける。
「しかしな、上海のオークションが船の中だったとは、全く思いつかなかったぜ」
「これじゃあ場所が特定できないはずだ。幻のオークションなどと噂されるのも無理はない」
「ヤバい代物も随分と扱っているようだな」
「そのヤバそうな一枚が今、お前の手の中にあるわけだ」
ハダが嬉しそうに白い歯を見せた。
一時間のインターバルの後、オークションが再開された。深夜二時をまわっていた。本日の二作品目が発表された。ざわついた会場の空気が張り詰める。静まり返る中、絵にかけれた真紅の布を取り去る音までも聞こえてきそうだ。モニターに一斉に絵画の出品情報が映し出される。どこからともなく「おおっ」と声が漏れる。期待と驚きの混じった声の後に、溜息と、「んんっ」とくぐもった声がする。そして周辺を見回すようながさつく音に混じって話し声がする。「ああっ」と頷く息遣いが聞こえる。
「何だ、この空気は? さっきとは違うな」
「コローだ。ジャン=バディスチ・カミーユ・コロー。十九世紀のフランスの画家で、主に風景画を描いた。世界で最も有名な画家の一人ではあるが、それと同時に贋作が多い画家としても知られる。コローは生涯で約三千点もの作品を残したと言われるが、俗にアメリカ国内だけで五千点のコローが存在すると言われている」
「何? 三分の二が贋作だと?」
「そうだ。イタリアのシンジケートで、コローの贋作が大量に見つかったこともある」
「真似しやすいということか?」
「それもある・・・・・・が、風景画で、しかも生涯点数の多さが災いしている。この一八四○年代に描かれたヴェネツィアの風景というのも微妙だな」
「どうしてだ?」
「確かにコローは一八四○年代に一度イタリアを訪れている。しかしヴェネツィアを訪れたのは一八二○年代の一度きりのはず」
リュウが鼻を鳴らす。
「しかしよくそんな細かいことまで知ってんな、感心するぜ」
ハダがニヤリとする。
「画商ってのは、その画家の人生を知らなくては務まらない。それは歴史から学ぶというより、その画家の絵と絵の合間を読み取る感性がものを言う。歴史的事実と時代背景、環境、人脈、宗教、家族その全てを現代の我々が知ることはできないが、デッサンの輪郭が一本の線ではないように、複数の線が重なって一つの輪郭を浮き上がらせるように、想像の糸を重ね合わせて行く。その先に見えてくるものが、その絵を描かせるに足るか」
リュウをチラと見る。
「お前の親父さんについても調べさせてもらった」
「そうか」
「タザキノボル。東京藝術大学卒業後、単身パリに渡り、三十五歳でパリの国際絵画コンクールで金賞を受賞。日本では無名だが海外での評価が高い画家だった。作風は風景画で、短編小説のような風景画と評される。最大の特徴は『タザキの白』と呼ばれる独特のホワイトの使い方で、海外コレクターを魅了する。生涯作品点数は極端に少なく、四十歳でパリで殺害されるまでの間に、習作も含め僅か百五十点ほどしか残していない。その殆んどが海外コレクターの手に渡っていると言われる。パリで盗難の被害に遭った絵画は全部で七点。皮肉なことに死後、絵画の価値が跳ね上がり、一枚十億円前後で取引されたという噂があるが、市場で見かけることはまず無い」
リュウが目を大きく開く。
「よくそこまで調べたものだな」
「お前の親父さん、パリに居ながら日本の景色ばかり描いていたの知ってたか?」
「いや・・・・・・」
「画家というのは、風景を見て、その見たままを描くわけじゃないんだな。写真のようにその景色を切り取るわけでもない。分解して再構築すると言えば難しく感じるが、要は脳に一回取り込んで、その画家のフィルターを通して表現すると言えばわかりやすいか。俺にはその辺の芸術的才能が無かったから、こうして理屈でしかものを見ることができないが、実に興味深い。画家の作品や歴史を調べて行くとわかってくることがある。でも、それは状況判断というか心理学のようなもので、画家個人の産物から推測しているにすぎない。それはある意味型に当てはめるような危うさも孕んでいる。だから画家が何を見て、何を描くかまでは到底理解できないし、その根底にあるものは、やはり画家本人以外誰にもわからないのさ」
「何かを見て、何かを思い出す・・・・・・か」
幼かった日に行った八幡平の情景を思い出した。八幡平には祖父タザキコウゾウの別荘がある。兄と過ごした数少ない記憶の断片である。ハダが続けた。
「だってそうだろう? 風景にしたって、そのままを描くことだってあるが、ピカソを見ろ、他の印象画家の作品を見ろ、心に映った風景を描いてやしないか? だからパリの景色を見て、日本の風景がより印象的に、鮮明に見えてくることだってあるんじゃないか?」
「そうだな、目の前にあるものからインスピレーションを受けて、より遠くにあるものが、違う視点で、より近く、よりリアルに見えてくる可能性があるということなのかもしれない」
ハダが頷く。
「そういう意味では、コローが一八四○年代にヴェネツィアに訪れていなかったとしても、その年代にこの絵を描いた可能性があるというわけだ」
「で、本物なのか? 贋物なのか?」
「まあ慌てるな、面白いのはこれからだ。俺はコローの真作である『ヴェネツィアの広場』や『ヴェネツィアの朝』を生で見たことがある。リュウ、お前はコローと聞いてどんなイメージを持っている? 勿論、作風という意味でだが」
リュウが鼻に手をやった。
「そうだな、霞がかった風景を思い出すな。モネとは違って作品の中に人物が入り込んでいて何かを意味しているような」
「そうだよな、一般的にはな。きっと絵に入り込んでいる人物はコローの想像上の人物で、コローが登場させたかったものだ。そして今、お前が言った霞がかったような風景はコローの後半の作品の特徴であり、他のヴェネツィアを描いた作品が明るく明確なタッチで描かれているにも関わらず、このヴェネツィア作品とは異なる。コローは一八七五年まで生きているから、ヴェネツィアの印象は二十代の頃に出来上がっている。だから妙なんだよ、霞がかったヴェネツィアが・・・・・・。誰かがコローのイメージとヴェネツィアのイメージをだぶらせて似せて描いたんじゃないかってね、直感で俺はそう思った」
リュウが口笛を吹いた。
「画家が作品中に、風景の一部として不特定の人物を描くことがあるだろう?」
リュウが頷く。
「あれって、画家の深層心理じゃないかって思う時がある。何故わざわざ絵の端にちょっとだけ人物を描くのか不思議で仕方がなかったよ、以前は」
「以前は? 今はそう思っていないと?」
「その疑問が今、解けつつある」
「聞いてみたいものだな」
ハダが苦笑する。
「俺には何となくわかるよ、あれって、画家自身の分身なんじゃないだろうか? 自分の世界観というかさ」
「世界観ね」
「そう、世界って人の意識の中で創られるだろ? だから風景というものの中には、受け手に自由な世界の摂理が描かれているだけで、描き手の世界観というよりも、受け手の世界観に近い。けれども作中に人物を描くことで、そこにはその絵の中で生きる人々を通して描き手の世界観がメッセージ性を持って、生まれると思うんだ」
ハダが顎に手をやった。
「なるほどな、リュウ、たいした感性だ。正直、驚いたぜ。小老が高く買うだけのことはある。そこまでは思いつかなかったよ」
「あくまで俺の勝手な解釈さ。買いかぶるな」
「世界観か・・・・・・新しい絵画の見方を教えてもらった。ところでリュウ、お前の親父さんの絵だが、コローと同様の世界観があることに気付いていたのか?」
「勿論だ」
ハダがクックッと笑った。
「タザキノボルの絵画の真贋を見極める指標の一つさ」
「皮肉なものだな」
ハダが目を細めた。
「お前なら、見極められる」
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