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九
羽田空港から上海浦東空港までは約三時間のフライトである。中国当局には予め、ハダケンゴの情報提供を要請していた。日本で罪を犯した日本人が中国に逃げ込んだ場合、中国との引渡し条約に関係なく、日本政府からの要請でその容疑者を拘束し、事情聴取することができる。しかし、日本に強制送還できるかどうかの判断は、中国次第ということになる。つまり、日本で罪を犯した中国人は勿論、日本人に対してでさえも日本の司法が及ばないのである。中国国内で中国の法律で処罰される。引渡し条約が無いとはそういうことだ。
「たった三時間しか離れていないのにな、国境を越えたというだけで、警察の力が及ばないのだからな」
「ええ、確かに。向こうの胸三寸だなんて」
サヤカが頷いた。
「当局は本当に協力してくれるんでしょうか?」
「さあな、そう甘くはないだろ」
マキノが眉をひそめた。三人は入国審査を済ませ、空港ロビーを後にした。中国公安当局の車が迎えに来ることになっていた。生温かい空気が首の周りにまとわりつく。すぐにサヤカが咳き込んだ。臭い。排気ガスだろうか、噂のPM2・5だろうか目に染みる。行き交う人々は皆大きなマスクで顔を覆っている。まるで東京の幹線道路沿いで、大型トラックが走り去った後のようだ。そこに嗅ぎ慣れない臭いが混じる。これは八角のにおいだろうか? どこからともなく、馴染みの無い異国の香りが鼻の奥に触れてきた。
迎えの車がとまった。黒塗りのレクサス。出迎えた男は人民政府公安庁外事弁公室の係官の遣いだと名乗った。中国では、特に地方政府ほど外国人との交渉は外事弁公室を通すのが通例である。犯罪捜査の関係者に直接会うことは殆んど期待できない。三人は言われるまま車に乗った。巨大な団地群のような同じ形をしたコンクリートの建物が、移動中の車内から目に入る。それも汚れた空気のせいで白く霞がかっていた。
予定していた上海市内のホテルにチェックインした。夕方から歓迎レセプションが行われることになっていた。レセプションは上海市内の別の高級ホテルで開かれた。小広間に幾つか円卓があり、ショウたちを含め十五、六人といったところか。今回の調査の案内役を務める劉という係官がぴたりとついている。年齢は四十歳前後で物腰が柔らかい男だった。劉は自分が知っていることなら何でも話すと言った。しかし、いざハダケンゴについて問うと、しきりに老酒をすすめ、乾杯を繰り返しはぐらかした。劉が流暢な日本語で話しかける。
「明日ハドチラニ行カレマスカ?」
観光客にでも問うようにして顔をほころばせる。
「随分と日本語がお上手ですね?」
「ワタシ、日本ノ大学ニ留学シテイマシタ」
「どちらに?」
「千葉ニ、千葉大学デハ生物学ヲ学ンデイマシタ」
それを聞いたマキノが苦笑する。
「専門は?」
「ウァルグラヒルゲンドルファイ。日本名ハウミホタル」
サヤカが割って入った。
「ああ、知ってます。波打ち際で青白く光ってるやつですよね?」
劉が目を細め、首を横に振った。
「イイエ、ソレハ、ウミホタルデハナク夜光虫ダト思イマス」
「夜光虫?」
「学名ハ、ノクチルカ。海洋性ノプランクトンデ、大発生スルト夜ニ青白ク光輝イテ見エマス。昼ハ日本名デ赤潮トモ呼バレマス」
マキノが眉をひそめた。
「赤潮かぁ、何となく汚れた海で発生するプランクトンってイメージしかないな」
劉が続ける。
「ウミホタルト夜光虫トデハ、同ジヨウナ色調ノ青色デモ光リ方ガ全ク違ウンデスヨ。夜光虫ノ光ハ小サクテ、一ツ一ツノ光ガアット言ウ間ニ消エテシマイマス。夜空ニ星ガ瞬イテイルヨウニモ見エマス。ソレニ対シ、ウミホタルハ穏ヤカナ柔ラカイ光デ、一度発光スレバシバラクハ光ガ消エルコトガナイ。太イ糸ヲ引クヨウナ青イ光ノ筋ガ、海中ヲ漂ッテイル」
サヤカが息を漏らす。
「ウミホタルハ甲殻類デ、エビヤカニノ仲間デス。海ノ掃除屋トモ呼バレ、海底ノ砂ノ中ニ生息シ、死ンダ魚ナドヲ餌ニシマス。比較的水質ノ良イ綺麗ナ水デシカ生キルコトガデキマセン。ソレニ対シテ夜光虫ハ燐ナドノ栄養素トシテ獲リ込ミ、大発生シテ一帯ヲ酸欠状態ニシテシマイマス。一般的ニ水質ノ悪イ汚染サレタ海ニ生息シテイマス」
「どちらも同じ青い綺麗な光なのにね」
サヤカが言った。ショウが頷く。
「似て非なるもの、か」
「夜光虫の美しさは夜の顔、昼の顔とは違うわけか」
劉が目を細める。だが、目の奥が笑っていない。
「今日ハ美味シイ料理ト酒ヲ飲ンデ、ユックリシテクダサイ。モシ宜シケレバ、明日、上海市内ノ名所ヲゴ案内シマスヨ」
「劉さん、大変申し訳ないが、我々はハダケンゴが上海に潜伏しているという情報を得て、はるばる日本から来ているんです。観光に来たわけじゃない」
「マア、マア、ソウ焦ラズニ、マキノサン。ケンゴハダノ情報ハ、幾ツカ我々モ掴ンデオリマス。ソノ件ニ関シマシテハ、後デユックリオ話シシタイ」
「やはりハダケンゴが上海にいるのは確かなんですね?」
劉が頷く。ショウが尋ねた。
「ハダケンゴと一緒に行動している男の情報はありませんか? 二十代後半の日本人で、台湾の白蓮幇というマフィアと関係している」
劉が興味深げにショウを見た。
「白蓮幇ト言イマシタカ?」
ショウが頷く。マキノが口を挟んだ。
「白蓮幇とはどのような組織なのでしょうか?」
「我ガ国ニ古クカラ在ル黒社会ノ一ツダガ、今ハモウ活動シテイナイ。我々ガ壊滅サセタ」
「台湾のマフィアだと聞いていたが、違うのか?」
「ルーツハ我ガ国ノ広州市ニアル」
と言ったところで急に黙ってしまった。ショウが見つめる。
「申シ訳ナイガ、ソレ以上ハ」
「劉さん、もう一つだけお聞きしたい。『六月の雨』という黒社会をご存知ですか?」
劉の目が一瞬険しくなり、眉間に皺が寄った。
「ドウシテソレヲ?」
「今、あなたの口から広州という地名が出たものですから」
劉がショウの表情をうかがっている。
「以前、もう二十年も前の話になりますが、フランス、パリで、ある日本人画家夫婦が何者かに殺害されるという事件がありました。そしてその容疑者の男が、六月の雨という広州マフィアの一員だったことがわかっています」
「ソウデシタカ、過去ニソノヨウナ事件ガ」
すると、その話を聞いていたマキノが手を広げて会話を制した。
「タザキ、一体何の話だ? ハダケンゴとその事件と、どう関係している?」
ショウが目を逸らす。劉が目を細めた。
「マアマア、マキノサン、構イマセンヨ。我ガ国ハ寛大ダ。デキルダケアナタガタノ捜査ニ協力スル用意ガアル。シカシ今日ハ、セッカクノパーティーデスカラ、ドウカ楽シンデイタダキタイ。ソノ方ガ両国ノタメニナル」
マキノの目が一瞬泳いだ。劉は笑みを浮かべている。ショウを追及したかったが、国の手前と言われればこの場を収めざるを得なかった。マキノがショウを睨みつけた。この男は自分が知らない捜査上の何かを隠している。マキノの耳に『六月の雨』という響きだけが残っていた。
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