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一
仄暗い海中を青白い光がうねっている。それは燐光のようでもあり、無機質に正体を変えた巨大な生き物のようでもあった。
揚子江の河口。支流の黄浦江にある上海国際フェリーターミナルから香港に向けて船が出たのは、すでに午後八時をまわっていた。黄浦江は長江の支流とはいえ、対岸が臨めぬほどの広さがある。上海の市街を流れ、大型船の停泊可能な港が幾つもある。東シナ海の海上交通の拠点であった。船は目的地に向かうまで、この黄浦江をゆっくりと下り、揚子江と出会い、東シナ海に出る。夜の黄浦江は上海の街の明かりを反射して賑やかなものだが、一度揚子江に出ると、そこはすでに孤独な海である。六月の河口付近は潮と汚水、有機物を食うプランクトンや藻で異臭を放っている。波打ち際に寄せられる人間の排出した異物の山。湿気を含んだ生温かい風。甲板の手摺に背をもたせ掛けるハダケンゴ。街の明かりを失い、仄暗く吸い込まれそうな海を見つめるキョウゴクシズカと、王美玲の姿があった。
「よく志明が許してくれたな」
王美玲が舌を出す。
「兄サンモ、私タチノコト、モウ諦メテルンジャナイカシラ」
そんな二人の会話を聞いていたハダケンゴが苦笑する。
「俺は先に部屋に戻るからな」
とだけ言い残して、客室へと消えて行った。王美玲はその姿を目で追った。
「アノ人、本当ニ信用デキルノ?」
「ああ、小老のお墨付きだ。それに今回の仕事は彼の力無しでは考えられない。美術品を見る目は確かだ」
「フウン、ソウナンダ、無口デ恐ソウニ見エルケドネ」
リュウは、ハダケンゴが日本の指定暴力団北陽会の人間だということを王美玲に話していない。ハダという男は、リュウがこれまで出会った日本のヤクザとは異なる種類の人間だった。経験から来る知恵を持ち、金を得ることの意味を知っているように思えた。人間的に信頼も寄せている。美玲には『ヤクザ』という色眼鏡で彼を見てほしくなかった。
「志明もそうだが、小老がOKしてくれるとは思わなかった」
「小老モ兄サンモ知ッテルノヨ、アナタガ頑固デ、言イ出シタラ聞カナイッテコト」
王美玲が悪戯っぽく笑い、上目使いでリュウを見る。リュウが苦笑し、また夜の海を見つめた。
「怪しい雰囲気の男二人組みよりも、お前が一緒にいることで周囲の警戒感が違う。それに言葉の問題もある。お前が一緒で心強い」
「アラ珍シイ。アナタデモ弱気ニナルコトアルノネ」
リュウは再び苦笑した。
「あるさ」
すでに上海の街の明かりは遠く、うっすらと白い膜のようにしか見えない。闇の中に船のエンジン音と、波を切り裂くしぶきの音と波動が響いている。何か心の底から咽上がってくるものがある。それはこれから船内で開催される美術品のオークションに参加する重圧のためなのか、父タザキノボルの絵画を前にする緊張であるのかわからなかった。ただ、今目の前に広がる東シナ海の闇の深さのような、得体の知れないものが背骨の髄に食い込んでいる。
「アレ、何カシラ?」
王美玲が指差した先に、船の航跡を模ったように長く青白いものが光っている。それは今作り出された波紋を浮かび上がらせ、吸い込まれるような透明な青だった。
「夜光虫だ」
リュウの髪が風になびいている。
「虫ナノ?」
王美玲が眉間に皺を寄せた。
「いや、正確には貝虫の一種、植物性鞭毛虫。学名『ノクチルカ』簡単に言うと海洋性植物プランクトンだ。つまり海を漂う植物。赤潮って聞いたことあるだろう?」
王美玲が頷く。甲板を照らすライトの影になって、彼女の少し驚いたような表情が薄く、白く浮き上がった。横顔が美しい。
「アルケド、赤潮ッテ気持チ悪イシ」
リュウが微笑んだ。
「奴らは日中は色素の関係で赤色またはピンク色しているが、夜になって周りの光が無くなると、ああして青白く発光する」
「ヘエ、シズカッテ、何デモ知ッテルノネ」
「大学で生物学を専攻してたんだ」
王美玲が目を大きく開けた。
「専門は分子生物学だけど、珍しい生物の生態を調べるのが好きだった」
「分子生物学ッテ?」
リュウが目を細める。
「簡単に言うと、遺伝子からその生物や生物の進化を解き明かす学問のことさ。DNAやゲノムなんて言葉、聞いたことあるだろ?」
「ヨクワカンナイ」
王美玲が頬を紅くした。リュウはそれを見て微笑した。
「こっちにおいで」
肩を抱き寄せた。リュウは兄のショウと同様、背が高い。百八十センチある。髪は長く肩まで伸ばしている。王美玲の背中に手をまわし、背を丸めて彼女の髪のにおいを嗅ぐことができる。同時に美玲はリュウの胸に顔を埋める。いつもムスクのよい香りがする。この瞬間は天にも昇るような気持ちになる。台湾にも男はたくさんいる。けれどもリュウのような男はそうはいない。容姿だけではない内面から滲み出る男らしさと知性、少し恐くもあるが、ミステリアスな私生活を併せ持つ。その全てが集約された胸なのである。
「夜光虫ッテ、何故光ルノカシラ?」
王美玲がリュウの胸の鼓動を聞きながら、青白く光る航跡を見つめていた。
「まだまだ解明されていないことも多いが、あれは進化のための光だという説がある」
王美玲がリュウの胸から顔を離し、顔を見上げる。
「進化の光?」
「生物の多様性って言葉を聞いたことあるか?」
「有ルヨウナ、無イヨウナ」
リュウが微笑する。
「地球上の生き物は、四十億年という長い歴史の中で様々な環境に適応し進化してきたことを言うんだよ。その種類はざっと三千万種。多種多様な生き物が生まれ、その全てが関連し合って、この地球という一つの生命体を形成している。俺たち人間は、単にその一種に過ぎない。夜光虫の放つ光は、奴らが進化して、生き延びてきた証だと言われている。奴らは自らの体内で二分裂し、無性生殖を行うことができるが、他のDNAを組み込むために有性生殖も行う。そのための光なんだ。要するに生殖の相手を誘引するための光。同時に無防備な自らを外敵から守るための光でもある。生き延びるための進化の光とはそういう意味さ」
その時、船の汽笛がボウッと鳴った。
「夜風ガ気持チイイワネ」
「無理しなくていいよ。本当はあまり興味が無いんだろう?」
美玲がペロッと舌を出した。リュウは夜光虫でできた航跡を漠然と見ながら、小さく溜息をついた。
「緊張シテルノ?」
リュウは何も答えなかった。
昨年の夏、ハダケンゴが台湾の漁船で密入国してから、あっという間に月日が流れた。その間は、八月に開催される上海の闇オークションに参加するための準備に明け暮れた。小老こと孫小陽も七十歳を過ぎ、四年に一度しか行われない今年の闇オークションを、若いリュウとハダケンゴに託したのだった。当初は二人一組での参加を予定していたが、急遽リュウの希望もあり、王美玲の同行が許された。ハダは最初それに反対したが、リュウの強い説得を受けて渋々了承した。ハダにとってはニッタジュンコを失ったばかりで、王美玲を見ていると、何かと彼女のことを思い出してしまう。運が悪かったと諦めようとしても、ふとした瞬間に彼女のことを考えている。自分らしくないことはわかっている。いっそのこと自分も撃たれてその場で死んでしまえばよかった。けれどもこうして生かされている。人生は不条理なものだと思う。調布飛行場から大島に飛び、そこから現地の漁船で三日間かけ、公海上で台湾の漁船に乗り移り、やっとの思いで台湾の地を踏んだ。すでに日本国内の空港には警察の手が回っていた。台湾の組織に合流し、なじみの顔と再会した時のことを思い出す。ハダはしばらく日本での出来事をリュウに黙っていた。けれども上海オークションが近くなり、日本での傷が少しだけ癒えてきたことで話す気になった。一緒に食事に行った際、自分を逃がしてくれたタザキショウについて話した。
「シズカ、実は日本でお前の兄貴に会った」
「何?」
リュウの目の色が変わる。
「お前の兄の名はタザキショウ。そしてシズカ、お前の本当の名はタザキリュウ」
リュウが絶句する。
「いつ、知った?」
「ここに来る直前。俺はお前の兄貴と共にいた。そして大きな借りを作っちまった」
ハダケンゴが苦笑する。
「何故、俺の兄貴だとわかった?」
「そりゃ、わかるさ、よく似ている。生き方や立場は正反対のようだがな」
兄のショウが日本の警察にいることは、妹のキョウコから聞いて知っていた。
「何故、警察官である兄と一緒にいたんだ?」
ハダケンゴが再び苦笑する。
「シズカ、いやリュウ。お前の兄貴が俺を国外に逃がしてくれたんだ。俺はお前の兄貴に借りができた。お前の兄貴がいずれ台湾に来た時、俺はお前とタザキショウを会わせる約束をした」
「さては、それと交換に兄貴と取引したってわけか」
ハダケンゴが声をあげた。
「察しのいい兄弟だぜ、まったく。でもそれによって誰も損はしないだろう? 商売でいうウィンウィンというやつだ。悪く思うな」
リュウが苦笑する。
「で、兄貴の様子はどうだった?」
「ああ、まともだぜ。お前ら兄弟はたいしたものだよ。お前の兄貴をただの警察官にしておくのは惜しいくらいだ。それに、お前に会いたがっていたぜ」
「そうか、上海のオークションが無事終わったら、一度日本に帰るつもりだ」
「それがいい、国際手配されてからでは遅いからな」
「おっと、それからお前には悪いと思ったが、お前たち兄弟のことを少し調べさせてもらったぜ。お前がどうしてタザキノボルの絵画に執着するのかようやくわかった」
リュウはジッとハダを見つめた後、フッと息を吐いた。
「ま、そういうことだ」
しかしそれに被せるようにハダが口を開く。
「だがな、これも何かの縁だと思って話すが、俺の人生も、お前らの親父さんの絵画に少なからず翻弄された。こうしてその息子たちに縁があるとは、因果なものだよ」
リュウがハダの目を見つめる。サングラスの奥で瞳が揺れる。
「それは、どういう意味だ?」
ハダが苦笑する。
「いずれ話す。今回のオークションに参加すればわかる」
「贋作か?」
ハダが驚いてサングラスの奥の瞳をリュウに留めた。
「信じられないほどの推理だな。まるで推理小説の結末を知っていたかのように当てやがる。そうだ。その通り。俺の親父はタザキノボルの贋作を掴まされて自殺した」
「何だと?」
二人の間に沈黙が降り注ぐ。
「誰に掴まされた?」
ハダが首を横に振る。
「はっきりしない。だが、俺は本物の『紅月』を持っている奴が真実を知っていると踏んでいる。親父が掴まされた贋作の月は紅かった」
リュウが首を捻る。
「紅かった、だと?」
「俺は、ある事実に気づいた。世の中に『月』は二つある」
「まさか」
「ここに来る前、日本で『月』を確認した。それは俺が知らない『白い月』だった。勿論、偽物だったが、俺はそれを見た瞬間にわかったんだ。この世に『月』が二枚あるとね」
「・・・・・・・・・・・・」
「そしてその『月』のどちらかが孫小陽の元にあり、今回、俺たちはその『月』の贋作と出合うことになるかもしれない」
「親父はどうして二つの月を?」
「さあな、そいつは俺が知りたい」
「リュウ、小老は台湾国内に『月』があると言ったんだろ?」
ハダが訝しがる。
「ああ、台湾国内のどこかにあると俺には言っていた。だがいまだにその場所を教えてくれはしない」
孫小陽の言葉を思い出した。秘密のアトリエで贋作が描かれていると言っていた。
「俺は小老がタザキノボルの絵画を所有すると聞いて、そのタイトルを聞き出そうとした。最後の最後まで口にしなかったよ。今回のオークションに出品する絵が『月』の贋作だと知って、俺は正直頭に血が上りかけた。だが、孫小陽が所有する月が紅なのか白なのか最期までわからなかった」
「もし、小老の月が紅かったら?」
ハダのサングラスの中の瞳が止まる。
「孫小陽を殺す」
「白蓮幇を敵に回してもか」
「俺はいつ死んだって構わない。俺たち家族をどん底に追いやった奴をズタズタにした後でならばな」
リュウが口笛を吹いて、手を振った。
「例え小老の持っている月が紅かったとしても、小老がその事件に関係したと決まったわけじゃない」
「お前はまだまだアマちゃんだ」
「しかし、何故小老は月の贋作を売る大役を俺たちに任せたんだろうか? お前が優れた画商であることを認めたとしても、何か腑に落ちないものがある」
「さあな、小老には小老の考えがあってのことだろ」
「万が一、本物の紅月が出たら、その時はシズカ、いくらお前にでも渡さない。その絵は本来、俺の親父が手にするはずのものだったんだ。親父が全財産を投げ打って、借金までして手に入れたかったものだ。わかるか?」
リュウは答えなかった。
「小老がこのことを事前に知っていた可能性は?」
「わからん」
「粋な計らいって奴かも知れないぜ」
「俺を紅月と、その所有者に導こうってことか?」
「だといいがな」
沈黙が続いた。ハダが何かを思い出しているようだった。
「俺の親父は目黒で画商をしていたんだ。俺も小学生までは山手のボンボンだったがな、親父が贋作を掴まされてから人生が大きく変わったよ。まあ、元々親父が残したものに居すわるつもりも無かったがな。けれどもお袋が可愛そうだった。俺たちは貧困のどん底で借金取りと戦いながら何とか生き延びたのさ。つまらない話をしてすまない。忘れてくれ」
「いや・・・・・・」
リュウは口を濁した。ハダもリュウの両親が殺害されていることは知っているはずだ。だから互いに傷を舐めあうような会話はしたくない。
「とにかく、上海に行けば何かがわかる」
リュウが呟いた。
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